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記憶を取り戻すと言葉ではわかっていても、久慈丸から聴かされた過去は香澄にとっては他人の人生の断片のようにしか見えなかった。知っているだけで感じてはいない。泥にまみれた迷宮を彷徨い続けてはいるものの、香澄は自分の身に起きたはずの残酷をそこにあるはずの痛みとともに体験したわけではなかった。
痛みや苦しみが想像以上にないのなら、それに越したことはない。もしかしたら、勝手に引き返せなくなるほどの苦悩に引きずり込まれると思っていただけかもしれない。むしろ香澄にはこんなことで保健室に閉じこもっていていいのかという罪悪感めいたものまであり、久慈丸と会うたびに鮮明になっていく過去もこのまま他人事のままで良いとさえ思えた。そうすれば、過去を知った自分も今までの日常を生きていけるだろうから。
再び「モノクロの世界」に襲われたとき、香澄はそんなことを走馬灯のように思い巡らせた。今帰り道の片隅で泣いている小さな自分も、脇に転がっている子ども用の水色の靴もみんな自分の過去だ。精神安定剤の効き目が弱くなっているのかもしれない。香澄は息を潜めて道を往く大勢の中の一部になろうとした。
すべては過去だ。現実ではない。
ねずみ色とピンクのタイルが3対1の割合で敷き詰められた歩道はぽつぽつと黒い斑点が付き始めている。雨が大降りになる前に帰ってしまおう。香澄は元から雨が好きではなかったが、最近は無意識に避けているのかもしれない。視界が「モノクロの世界」に覆われるのも、低気圧に覆われた街のせいなのだろうか。何が原因かは分からないが、香澄は雨が降る度に何かに追われているような気がして、その度にわが家へと早足で帰るのだった。
もしありとあらゆる可能性が目に見える形でこの世界に存在できるのだとしたら、きっと道端で倒れてもがく香澄もいるのだろう。息が切れて、誰かが近づいて来ても気付かなくて、気が付いたときにはすでに病院の中にいる。そんな可能性から逃げるように走った歩道は歩道と呼べるほどの道幅もなくなり、香澄は雨で一段と黒く染め上げられたアスファルトの丘を朦朧とする感覚に従いながら足を進めた。
これは、まずいかもしれない。
嫌な感覚が香澄の背後でひたひたと寄り付いてきたのは、視界の端に自分の住むアパートが見えた直後だった。
彗に助けられたときにも似た脳がかき混ぜられたような気持の悪さは、このまま身体のスイッチを消してしまうかもしれない。そうなったら、この身体は再び起きてくれるだろうか。
世界は残酷で不条理だ。そう呟いたのは今の自分だろうか。それとも、過去の自分だろうか。
人が平気で嘘をつくものだと信じるのは過去の浅間香澄のせいかもしれない。それでも、この歪な世界でその言葉が強く響き渡っているのは事実だ。
ようやくたどり着いたアパートでエレベーターのボタンを押し続けているときでさえ悲しみの暴走は止まらず、香澄はエレベーター脇の壁にもたれかかりながら背後から聴こえる機械音で思考を紛らわせた。雨を纏った髪は頬にべったりと張り付いている。定期点検と称していつも間に合わせの修理をしているエレベーターはすぐにはやってこない。やってくるのは泣いているかどうかも分からないほどびしょ濡れになった小さな香澄だけだ。
「酷い目に合ったね」
小さな自分の声がぼんやりと鉄筋コンクリートを反射する。
このまま朽ち果ててしまいそうな乾いた笑いを漏らすことくらいしかできない人間に、過去を背負って歩み続けるなんて大層なことができるだろうか。こんなとき、香澄は他人が羨ましくて堪らなくなる。受験会場で周りの受験生がみな賢そうに見える時と同じように、想像上の友人たちは想像の中で易々と苦しみや葛藤を乗り越えてしまう。
誰かに今この瞬間の人生を代わって欲しい。灯はこんな酷いトラウマを抱えても力尽くで乗り越えるだろうし、汐音先輩なら香澄には考えもしないようなスマートな方法でどうにかやり過ごして見せるだろう。では浅間香澄と言う人間はどんな風に傷と向き合うのだろうか。誰かの頭の中の浅間香澄は苦しみを乗り越えることのできる女子高生なのだろうか。
「その程度で苦しいなんて、他の人に聞かれたら笑われるわ」
今度は母の声だった。
侮蔑で捻じ曲げられた声は息をするのも気怠くなるほどに香澄の身体を蝕み、目をしっかりと開けることさえままならない。
重たげな金属音に反応してようやく滑り込んだエレベーターは幸い誰も乗っておらず、張り巡らされたフエルト製のマットはざらざらと肌と擦れながら香澄を受け止めた。
「うぅ」
無理に動いた身体は上も下もなく内容物が逆流しそうだ。肩を引きずりながら伸ばした手はエレベーターのボタンを押そうとするが、不鮮明な視界ではどれがどのボタンかもまともに分からない。視界に映ったボタンは本当に4のボタンだろうか。香澄にはそれを確認する気力もなく、指で押すとすぐにその場に倒れ込んだ。
目を開けることを諦めた香澄には、上階へと上っているはずの振動が永遠に続くようにも思えた。このままどこか遠くまで行ってしまえばいい。震えるエレベーターは空を舞いあがり、果てはスペースデブリとして太陽系を漂い続ける。宇宙の中でこの苦しみが霧散するのなら、それもまたロマンのある話になるだろう。
香澄がそのまま寝てしまおうかと思ったのも束の間、順調に震えていたエレベーターは大きく横に揺れると大きな音を立てながらドアを開け放った。
「はぁ」
息を切らしてエレベーターから現れる全身ずぶ濡れの女は最早ゾンビかもしれない。けれど今の香澄には同じアパートの住人に見られたときの羞恥心を気にする余裕もなく、頬に張り付いた髪を払うのも気怠い。
「よんぜろきゅう……よんぜろ……きゅう」
かばんから取り出した鍵を握りしめ、壁を這いながら自分の部屋を探す。暴風に煽られた雨は弾丸のような音を撒き散らし、弾けた雨粒が香澄の頬を濡らした。
何もかも不快だ。けれど一番不快なのはスカートの裾を握りしめながら付いてくる過去の自分だ。
過去を受け入れれば毒はたちまち体内を巡り、最後には香澄の意識を記憶を失う以前に戻してしまうだろう。情にほだされてはいけない。手を伸ばせば、そこで消えるのは他でもない自分自身だ。小さな自分の声をかき消すように上げた理性のボリュームは震える息と混ざり合った。
「うぅっ」
いつから身の上の不幸に泣きだしてしまうようになったのだろう。眼球から分泌された感情は黒く濁った視界に溶け、咽びながら這う共用通路は香澄の悲しみを黒く染めてしまうようだ。
ふらつく足はどこに立っているのかも分からない。地に足がついていたらこんな思いはしていないだろう。もはやゾンビどころか幽霊だ。遠くで聞こえる大きな水しぶきの音は大型トラックがまき散らしたものだろう。閑静な住宅街の雨は冷たい。この丘は溜まりやすいのだ。水も、人も。
「あぁ」
香澄は視界に入った鍵穴に鍵をねじ込んだ。
息を吐き出しながら鍵を回す。
「ああぁ」
鍵を引き抜いてドアレバーに体重をかけて身体ごと扉を動かす。
ようやくたどり着いたわが家。全身の体力が抜けた香澄は肩や腰を打ち付けながら家へと倒れ込んだ。
「何かある度に男のところに逃げ込んで。恥ずかしくないの?」
扉が閉まる音に安心した香澄は靴を無理やり脱いで部屋の奥へと這う。
その耳にはまた小さな香澄が泣く声が響いていた。
「おかあさん、ごめんなさい」
涙で濡れた床を身体を引きずりながら這う。
怖くて手足が震え、力が入らなくなっていた。
「ごめんなさい。私なんかがいるから」
涙と唾液が顔をぐしゃぐしゃに汚し、香澄は不安でたまらなかった。全身が震えているように感じ、どこにいても苦しく感じる。少しでも動きを止めたら殺されてしまうような気さえした。
「あぁ」
必死の思いでベッドにたどり着き、布団を引きずり下ろす。もうこの布団からしがみついて離れられなかった。この布団から離れたら何もかも消えて自分も消えてしまう気がした。ぐしゃぐしゃに濡れた布団は顔を濡らし、身体はどうしてか寒くてならなかった。
「何も変わっていないわよ。だって、あなたが幸せそうにしている方がおかしいでしょ?」
腕が黒く塗りつぶされた視界から首へを伸び、床へと押し付けるように締め付けられる。震える手足はいるはずのない母親を振り払おうともがくたびに痺れ、香澄は次第に何から逃れようとしているのかも分からなくなっていった。
いつのまに助かっていたのだろう。次に目を開けたときには香澄は疲労の覆いかぶさった身体を床に横たわらせ、重たい瞼を開けて白い壁を見ていた。
香澄は嗚咽をあげながら息を整えると、身体中から力が抜けて同時に震えが徐々に収まっていくのを感じた。
「助かったんだ」
香澄は意識がもうろうとする中、ゆっくりと目を閉じた。もう何も考えられなかった。




