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治療自体は大したものでなくても、治療のために心を開くとなるとそう易々とできるものではなくなってしまう。その点、自分はそれなりに運が良かったのだろう。雑居ビルの片隅にある電球色で照らされた一室でこれから起きようとしている治療を想像して、香澄は自らの幸運を祝福した。
記憶を取り戻すときは緩やかでなくてはならない。久慈丸は香澄の心の底に沈殿した不安に分け入るようにゆっくりと、そして一言一言を大切に治療の説明をした。
つまりは心というものはどうしようもないほど脆いものなのだ。自身の心は頑丈だと言い聞かせている人たちは多くいるけれど、それもまた自身の心の脆さを知っているが故の気持ち程度の支えに過ぎない。記憶も心の人格もすべてが密接にかかわっている以上、そのどれに触れる時も薄いガラス玉を扱うような注意を払わなくてはならない。
久慈丸は熊愛好家だけに口調も仕草も比較的のんびりしたところがあるが、それでも香澄をじっと見つめて話す久慈丸はありとあらゆる細心を香澄に張り巡らせていた。
「浅間さんは今、一人で暮らしていますね?」
「はい」
「ご家族についての記憶はありますか?」
「いえ、ありません」
「かつて浅間さんがここに来た時、私が消して欲しいと頼んだのはその家族に関する記憶でした」
まったく予想していない答えではなかった。久慈丸が口にした「家族」という言葉は、記憶を失っていると聴いてから香澄がようやく疑うようになった常識の一つだったからだ。
そのことに関する記憶を一切失っている、ということはつまりその事柄にまつわる世間一般的な常識も世間一般では思いもよらないほどに持ち得ていないということでもある。ここ数日、香澄は「普通の家族」というものについて考えてみた。公園で遊ぶ子どもたち、それを見守る母親、レストランで父親と母親が二人の子どもを連れて入ってくる姿。気付いたときには一人だった香澄にとって、それは明らかに自分とは異なる存在でありこの世界における多数派のように見えた。
記憶とともに失ったものがあるとするならば、それは「家族」なのかもしれない。一人でいることになんの疑問も抱いていなかった香澄にとって、それはこの世界と自分とのズレをよく言い表しているように思えた。
「浅間さんは家族についてすべて忘れてしまいたいほどに追い詰められていました。心当たりはありますか?」
「たまに、小さなころの私を思い出すことがあります。ずっと泣いていて、悲しそうにうずくまっている姿を」
「そうですか」
今になってようやく過去の自分に哀れみを覚えるのは他人事のように感じているからだろうか。恵まれなかったね、子どもは親を選べないものね。そんな言葉を身を裂くような苦痛も全身から湧き上がるような恨みもなく思い浮かべる人間は、画面上のドキュメンタリーを見て悲しむ自分に寄っているだけの薄っぺらい人間なのだろうか。香澄は自分に向けた猜疑心と、何よりもとめどなく湧き上がる悲しみに戸惑いを覚えていた。
「それは、浅間さんがご両親から家庭内暴力を受けていたころの記憶です」
『何かよくないもの』が明瞭な形を伴って手に触れる。歪な形をしたそれが過去の香澄の心や思い出といったものだとしたら、醜く潰された心や思い出は決して元に戻ることはないだろう。「家族」というものはこんな形をしているのだろうか。久慈丸の話に耳を傾けながら、香澄は自分の胸に引っかかった恐怖とは別種の感情を辿り続けた。その先があるのかは分からない。けれど、知らなくてはいけないものがそこにあるような気がした。
「今日のところはこれ以上の言及は避けます。もしかしたら、帰ってからとても嫌なことを思い出すかもしれません。その時は暖かいご飯をいっぱい食べて、身体を暖かくしてゆっくり休んでください」
思考の迷宮に入り込んでいるうちに終わった久慈丸とのカウンセリングは、香澄の中に様々な感情を残した。過去を通して見た人間という存在は冷酷で残忍で卑怯な存在だ。そんな世界で行きつくのは孤独しかない。中学二年生までの香澄のように。
香澄はふうっと息を吸い込んで久慈丸の横に鎮座しているテディベアに向かって息を吐くと、伸びをするように立ち上がった。
「ありがとうございました」
「はい。お大事に」
ビニール袋に入った精神安定剤を揺らしながら帰る道は街灯も人通りもあるのにいつも以上に暗く感じた。
ぼんやりと暗闇に浮かぶ橙の光を頼りに寂しくて苦い唾液を飲み込む。
「寒い」
そういえば、彗といた時は今みたいな苦しさは忘れていた気がする。彗といた時間を思い出すと、香澄は少しだけ今の窮屈な気持ちが広がっていくのを感じた。
香澄は宇宙には飛んでいけないし、宇宙に住んでいるわけでもない。けれど、彗といた時間は一緒に宇宙を漂っているような不思議なひと時だった。
「また会えるかな」
また彗のいる景色が見たい。家へと続く坂道は街灯もまばらで心を萎ませるばかりだけど、彗といた時間を何度も再生しているうちに香澄は家に着いていた。
出かける前に用意しておいた肉じゃがを温め、サラダにドレッシングをかける。温かいご飯にインスタントの味噌汁を添えると、味気ない白のローテーブルが生活感で彩られた。
「いただきます」
ほろほろと崩れるじゃがいもも、酸っぱいドレッシングがかかったレタスも口に入れると甘さがじわりと広がっていく。安定していない心も、夕食を食べているときくらいは静まり返っているみたいだ。
「ん、おいしい」
どうしてか香澄の頬は温かくなっていた。何の変哲もないしょっぱい味噌汁がやけに特別に感じられた。
こんなに夜は暗いのに、この部屋は陽が降り注いでいるかのようにぽかぽかと暖かい。香澄は空になった食器に両手を合わせるとふうっと息をついて洗い物を済ませた。
お風呂に入らなくては。
今すぐ溜まったお湯に浸かりたかった。全身をじわじわと温められたかった。
少しでも多くの温もりを求める心は止まることなく、せかせかと準備を済ませてお風呂場へと踏み入れる。
ちゃぽん。
「あぁ……」
肌に纏わりつく湯気とともに、熱が身体の芯を溶かしながら首元までせり上がる。血の巡りが良くなったせいか、つい嫌なことや恥ずかしいことを思い出してしまう。ベージュ色の天井を見上げて、香澄はため息をついた。
こんなことばかりだ。嫌な記憶に追い回されてばかりでいつまでも気持ちを緩めることができない。過去のトラウマなんてなくてもこういう瞬間はいつもあったのだ。
ふと気づけば考えたくもないことを考えて堂々巡りをしている。それは自分が幸せであったと信じ切っていた頃も同じだ。幸福が手の中にあると知っていても灯の沈んだ顔を見れば不安になって、一人の部屋を寂しく感じたりもしていたのだから。
寝る前に飲んだホットミルクはじんわりと身体に広がって、薬なんかよりもずっと心が落ち着いた。香澄は人生で最もおいしかったそのミルクのことを忘れはしないだろう。もう二度と見たくもない記憶とともに。




