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 良い状態は数日続くと日常になり、いつしか当たり前のものに変わってしまう。

 下校時刻になった廊下の途中、香澄は今の平穏は決して嵐が過ぎ去ったから訪れたわけではないのだと気付かされた。

 まずい。変調を感じた香澄が保健室へと急いで向かおうとしたのとほぼ同時に、香澄を今までで最も酷い苦痛が襲った。安定剤が切れてしまったのかもしれない。脳が揺さぶられ、立っていられなくなった香澄は黒い靄に埋め尽くされた視界の中で必死に身体中の感覚が失せていく気持ちの悪さに耐えた。


「大丈夫ですか?」


 朦朧とする頭の中で響いた男の声を頼りに伸ばした手が布に触れる。このままここで過去の恐怖に飲まれたくない恐怖と身体中の血液を抜き取られているような気持の悪さとがせめぎ合い、香澄の身体は硬直した。


「すいません」


 ガクガクと震える腕が持ち上げられ、平衡感覚を失った香澄の身体は声のする方へともたれかかる。思考さえも黒く塗りつぶされていく中、香澄は振り落とされてしまわないように支えを必死に掴んだ。


「浅間さん、行こう」


 ゆっくりと身体を支えられながら踏み出した一歩は、怯えと乱れた息を伴っていた。命を狙われているような恐怖が身体を支配する。そんなことはないはずなのに、香澄の足の震えは止まらなかった。

 いや、そんなこともあるのかもしれない。ゆっくりと身体を揺らして保健室へと向かう中、香澄はどこかで背中を這いずり回る恐怖が本物のように思えた。背後をひたひたと迫ってくるのが過去の自分だとするならば、それは命を狙われているに等しいものだろう。目覚めた後、自分はどうなっているのか。香澄は薄れていく意識の中、そこにあるはずのベッドへと倒れ込んだ。


     *     *     *


「浅間さん、具合はどうですか」

「う……」


 何度経験しても慣れることのない頭の揺れる感覚にため息をついて、香澄はベッドから身体を起こした。香澄を支配していたのは苦痛ばかりではなく、自分が自分としてここに居るということへの安堵も覚えていた。


「水、飲みますか?」


 自分が自分でなくなったとして、自分はそのことに気付くことができるのだろうか。そんな考えだしたらキリがないような疑問が浮かぶが、それも身体に蔓延る気持ち悪さと一緒に洗い流すように水を飲み干した。


「はぁ……」

「どうですか」

「うん、だいぶ良くなったかも」


 息を思いっきり吐きながら再びベッドに倒れ込む。三半規管が壊れてしまっているのか、世界が歪んで遠近感がいまいちはっきりしない。


「えっと、確か」


 まだ頭が起動しきれていないのか、香澄は目を細めながら横で心配そうに見つめる男子生徒の名前をすぐに思い出せずにいた。臆病さを宿した瞳も大人しそうな雰囲気も髪や肌がつやつやしていたりして所々中性的な匂いを感じさせるところも、確かに香澄の記憶には残っている。けれど、どうしてもあまり接点のない男子生徒の名前はすぐには出てこない。辛うじて同じクラスであること思い出す程度だ。


「国見彗です」

「すい?」

「はい、彗星の彗です」


 真っ暗な夜空を横切る彗星のイメージが脳内に描き出されたとき、香澄はそれがすごく懐かしいもののように感じた。どこかで見たものなのか、それとも一種のデジャヴのようなものなのかは分からない。それでも傾きかけた陽が差し込む保健室で見た彗星は、国見彗という人を表す心象風景として香澄の心にしっかりと刻み込まれた。


「ありがとう。連れてきてくれて」

「その、辛そうだったので」


 どこか顔をこわばらせて話す彗はきっと真面目な人間なのだろう。真面目な人には神秘的な名前が似合う。広大な宇宙を旅する彗星は彼を小さな箱庭で日々を並び立てるだけの人ではないと言っているみたいだ。そんな宇宙の彼方を漂う思考の中で、香澄はついさっきまで抱いていた身体の鈍さがなくなっていることにはっとした。間違いなく、そこには人がいるというのに。


「あっ、すいません。僕じゃなくて誰か他の女子に頼めばよかったですね。こんなところで二人きりだと、浅間さんも迷惑ですよね」

「いいよ。いて」


 それはただの風の吹き回しかもしれないし、痛みから助けてくれた人に縋りつこうとしたのかもしれない。立ち去ろうとする彗の手を掴んだとき、ぴたりと辺りの雑音が止んだベッドの上で香澄は自分の鼓動の音だけを聴いていた。今まで恐怖に晒されたときの記憶が頭の中で溢れ出すが身体はまったく苦しくない。それどころか、彗の手を握った香澄の手にはどこか落ち着くような温もりが広がっていた。


「優しいんだね、通りかかった女子を助けてくれるなんて」

「そうでしょうか」


 その震えた声を聞いて、香澄はどうして彗がそんなに真剣な表情をしているのかが分かったような気がした。

 何かに迷っているのだ。この真面目で優しいクラスメイトは。


「浅間さんのこと、知っているので」

「えーっと、同じクラスだからってこと?」

「いえ、そうじゃなくて。浅間さんとは小学校が一緒だったって意味です」


 意外、と素直に驚くにはあまりに不安な彗の言葉に、香澄は作り笑いを浮かべた。『どうせ聴けば聴くほどに目を逸らしたくなるような過去だよ』と囁かれるとどうしても過去にまつわるものを遠ざけてしまう。


「ごめん、私忘れっぽくて。小学校の時のこと、あんまり憶えてないんだよね」

「そうなんですか?」

「だから国見君のことも忘れちゃってたのかも。ごめんね」

「いえ。そうだったんですか」


 寄る辺もなく漂い続けることに疲れていたはずなのに、それ以上に人に触れられることを避けてしまうのはどうしてなのだろう。ベッドの横でじっと黙って顔を伏せているのは彗のはずなのに、香澄に焦燥を突き付けているのは紛れもなく無表情でベッドを見下ろしている過去の香澄だ。

 弱い人間になってしまった。震える自分の指先を見た香澄に湧いてきたのは、つい数か月前までの無条件に他人の愛情を信頼することができた自分への羨望だ。きっと陰惨な過去を知らない自分なら迷いなく彗の手をとって助けを求めるだろう。変わってしまったがために苦悩を抱え、変わってしまったばかりに苦しみを背負い続ける。『もう戻れないよ』と聴こえてきた声に香澄は大きな深呼吸をして返した。

 もう、目の前に映るのは彗の姿だけだった。


「ねえ」

「はい」

「これから話すことは誰にも言わないって、約束できる?」

「はい、絶対言いません」


 光を吸い込むように大きく見開かれた彗の目は香澄の姿をしっかりと宿しながら鋭敏な物へと変わっていく。思い出しても忘れてしまっても、浅間香澄と言う人間が変わることには違いはない。灰になってしまうのならその瞬間を誰かの目に焼き付けてしまおう。真面目で無害なクラスメイトを巻き込むとしている人間の手が震えていないのは、もう被害者ではなくなってしまっているからかもしれない。


「私、中学二年生までの記憶がほとんどないの。治療で過去の記憶を消しちゃったんだって」

「はい」

「それが今、何かの拍子に思い出そうとしているらしくて。悩んでるんだ、過去を思い出すのか、もう一度過去を忘れてしまうのか」

「浅間さんの、過去」

「うん。国見君は知ってるんでしょ? 私の過去を」


 難しい数学の問題を前にしたような顔で彗は悩んでいた。香澄もこんなことを人に打ち明けていいものかと思ったけれど、彗に訊くのが一番いいような気がした。


「僕は、思い出さない方がいいと思います」

「それは、酷い過去だから?」

「高校で浅間さんと会ったとき、初めは浅間さんだと気が付かなかったんです。今の浅間さんは僕が知っていた浅間さんとは違っていて、とても楽しそうに笑っていた。できれば、今のままでいて欲しいです」

「今のまま、か」

「それで上手くいくかは分かりませんが、過去を思い出すよりはずっと良いと思います」

「でも、その酷い過去を消すと、また私が私でなくなってしまうかもしれない」

「そんな」


 彗の言葉を失ったような表情は香澄の置かれた状況の難しさを物語っている。少しでも不安定な自分に慣れようとして来た香澄にとって、それは「あなたは今、非常に絶望的な状況ですよ」と突き付けているようなものだった。

 そうか、自分は悲惨なんだ。他人の物差しで測られた悲劇は当人が不安を抱えながらなんとか歩いている道をもっと酷い茨の道にしてしまう。


「浅間さんは、忘れたくないんですよね」

「そうだね。それに、これから過去を思い出すたびに過去を忘れていたら、何のために生きているんだろうって思っちゃって」


 遠くからトランペットの音色が聴こえてくる保健室は陽が差し込んでいて暖かいはずなのに、香澄の手は内側から冷たさが湧き上がっているようだ。


「もし思い出したとしたら。浅間さんはすごく苦しむと思います」

「うん、そうだね」

「その苦しみは僕には分かりません。だから、過去と一緒に生きていけるなんてことは、僕には言えません」

「うん」

「でも。もし、浅間さんが過去を思い出すと決めたのなら、僕は自分の身体を投げだして浅間さんを助けます。浅間さんがその先も生きて行けるように、僕にできるだけ、浅間さんを支えます」


 この世界にはどれだけの優しさが眠っていて、人はその優しさにどれだけ出会えるのだろう。苦しいときに愛をくれた人、寂しいときに傍で話を聴いてくれた人、動けないときに居場所を与えてくれた人。香澄は今までになんども優しさに巡り合ってきて、そのうちの多くを忘れて生きている。つい優しさは当たり前にそこにあると思ってしまうけれど、今は違った。

 こんな出会いはもうないだろう。この人で埋め尽くされた学校で、香澄はもう二度と会えないかもしれない優しさと出会った。

 それだけで、決断するには十分だった。


「国見君」

「はい」

「ありがと」


 涙が自然とこぼれてきた。

 こんな日にも手を差し伸べてくれる人がいる。香澄は震える手で彗の手を握った。


「あと」

「何でしょうか」

「彗、って呼んでもいい?」

「うん」

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