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川沿いにある公園は、ここが人を癒すためにあるのだと知っているかのように人々を川のせせらぎと木々がさらさらとこすれ合う音で包み込んでいる。ここを走り回っていればどんな子どもも妖精のようだ。汐音先輩を待つ日曜日、香澄はベンチに座って子どもの集団を眺めていた。
もしも自分の部屋で灯と会っていなければこうして汐音先輩と会おうとは思わなかっただろう。灯がかつての香澄を「幸せそうだった」と言ったからこそ、汐音先輩から今突きつけられているどうしようもない選択のヒントを聴いてみたくなったのだ。
気のままに香澄が「明日空いてますか?」と訊くと、すぐに汐音先輩から「いいよ」と返事が来た。もしかしたら香澄が汐音先輩を遊びに誘ったのは、これが初めてのことかもしれない。二人は気まぐれが変わってしまわないように会う約束をして、近所の公園で待ち合わせをすることにした。
薬が効いているのか、それとも気の持ちようなのか今日はぞわぞわとした落ち着かなさも肌を刺す圧迫感もそれほど感じない。香澄には脳の電気信号がどんな形で走っているのかは分からないが、近頃はなんとなく見える景色の受け取り方が変わったような気がする。久慈丸のもとへ行く前は常に頭痛を気にしていたが、今はそれ以上にこの世界のありのままを見ておきたいという気持ちの方が強い。決して今の自分のまま緩やかに進んではいけないのだと知ってからというもの、香澄少しでも今の景色の見え方を残そうとしていた。
大きな声を上げて走り回る子どもに木のテーブルを囲むお年寄りたち。一人でパンダの乗り物を揺らす子どもとお姉さんを引っ張りまわすパグ。ここは賑やかだけどうるさくはない。
だからだろうか。木々の向こう側に見えた汐音先輩の姿は、思わず香澄がベンチから立ち上がってしまうほどここの空気が似合っていた。
「おはようございます」
「おはよ、今日はちょっと寒いね。大丈夫?」
「はい。出るときに急遽カーディガンを羽織ることにしたので」
「正解だったね。子どもたちは半袖でも平気みたいだけど」
「子どもは強いですね」
今にも川に飛び込んでしまいそうな勢いで鬼ごっこを楽しみ半袖半ズボンの子どもたちを横目に、香澄と汐音先輩は川沿いを歩き始めた。なんでも汐音先輩が言うにはカプチーノがすごくおいしいカフェがあるらしい。
「なんでも牛乳をすごく選び抜いているらしい」
「うちは割と普通の牛乳ですからね」
「まあ、あれが限界だろうなー。うちはそんなにカプチーノ押しじゃないし」
「私は汐音先輩のコーヒー好きですよ」
「ありがと。浅間に言われるのが一番うれしい」
木陰に覆われた川沿いの道は冷たい風が吹き抜け、すっかり散ってしまった桜の花びらが舞い上がる。
この時間がただの移動時間になってしまわないのは、汐音先輩といる時間に浸っているからだろう。気持ちよさそうに歩く犬とすれ違いながら、香澄は犬と同じような顔をして息を吸い込んだ。
「いい天気だな」
「コーヒーが美味しくなりますね」
「うん。暑すぎないのがいい」
茶色い欄干の細長い橋を渡った先にある住宅地は、駅のホームから降り立ったかのように両脇が灰色のコンクリート塀で埋め尽くされていた。無機質なこの道も住み続ければ愛着も湧いてくるのだろうか。駐車場の脇にぶら下げられたオレンジ色の小さな花は、香澄には無表情なこの街がふと見せた小さな微笑のように見えた。
「あった、あれだ」
汐音先輩の目線を頼りにコンクート塀を辿った先には、白い壁に群青色の屋根という青空が映った水たまりのようなコーヒーショップが立っていた。屋根と同じ色で縁取られた上げ下げ窓からはコーヒーを淹れるバリスタとエスプレッソマシンが見え、汐音先輩が開けたドアの隙間からは香ばしい匂いがほんのりと香澄の鼻をくすぐった。
「奥と手前、どっちがいい?」
「手前で」
香澄がそう言ったのは今日が体調も機嫌も良い日だったからだ。
数日前なら間違いなく、香澄は奥の人目に付かない席を選んだだろう。けれど、今日は手前でも大丈夫な気がした。景色が見える日には景色を見た方がいい。
「なんだか、いいですね」
「うん。この雰囲気は好きだ」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「やっぱりいいです、口が滑りました」
「なんだそれ」
やっぱり汐音先輩はカフェにいるのが似合う。評判のカプチーノを頼み、目線を外の景色とゆるゆるとした癖毛の間を漂わせていた香澄はふとそんなことを思った。どことなく捉えどころのない雰囲気はアルバイトをしている時もこうして二人でいる時も変わらない。
「普段もこうしてカフェに寄っているんですか?」
「あくまで趣味だけどね」
「ここ居心地いいです」
「それならよかった」
住宅地の一角にあるこのカフェを選んで香澄を連れてきた汐音先輩はいつも通り、この瞬間も香澄に配慮を尽くしているのだろう。街中とは違って人目に晒されることも少ないここは香澄に目を細めて笑う汐音先輩の顔をじっと見つめさせた。
「今日の浅間は柔らかい感じがする」
「そうですか?」
「うん。体調も良さそうだし」
「はい。汐音先輩と居るからかもしれません」
「俺?」
「なんとなく、一緒に居ると楽なので」
「それはまあ、よかった」
白い光が黒髪を艶やかに照らす。いつも静かな汐音先輩がこんなに笑みをこぼしているのは珍しくて少し眩しい。眩しさから逸らした視線の先にはお待ちかねのカプチーノがやってきていた。
このカフェは群青色に恋しているのかもしれない。ややくすみがかった深い青に包まれたスチームミルクはどこか高いところから海に浮かんだ雲を見ているみたいだ。
「やけどには気を付けて」
そう言われて飲んだカプチーノは火傷の心配もないほど舌に馴染んだ。本来カプチーノはこういう飲み物なのだろう。きめ細やかなスチームミルクは間違いなく飲み物なのだが、同時にどこか食べ物のような重厚感も覗かせている。スチーマーにかけられてボコボコと沸き立つミルクは初めはゆっくり、後になるほど早く温度も形状も変わっていく。そして、一度生クリームのようになってしまったミルクは元には戻らない。
「やっぱうまいな、ここのカプチーノ」
「来てよかったです、このお店」
「俺の株も上がった?」
「初めから信用してますよ。汐音先輩」
正直、まったくもって不安がないというわけではない。香澄は常に自分が自分でなくなってしまう不安を抱えていた。それでも、今ある幸せは幸せとして守りたかった。
「その、先輩」
「なに?」
「先輩は、つらいことや苦しいことがあったらどうしますか?」
「んー、とりあえず楽しめそうな方に進むかもね」
「なんだか、汐音先輩らしいですね」
「どっちに行っても正解なんてないだろうけど、幸せだと思える方が後悔しないと思う」
どこをどう進んでも良いことなんてないような気がしていた。不安ばかりで、もしもすべて忘れたとしてもいつか後悔しそうな気がしていた。
幸せそうな道。ぼんやりと浮かんだ選択肢は、まだ不鮮明なままだ。




