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 眠さと格闘しながら三度目になる携帯電話のアラームを止めて画面を確認すると、『家、行ってもいい?』というメッセージが表示されていた。


「誰だ」


 目をこすりながら画面に焦点を合わせると、そこには「灯」とある。まだ7時半だというのに元気なやつだ。眠気眼を擦りながら『いいよ』と返して香澄はのそのそと布団から這い出した。


「今日は目玉焼きかな」


 カーテンを開けると朝日が真っ白に部屋を照らし出す。この街の夜は街灯やイルミネーションで彩られているけれど、土曜日の朝はまだ街が寝ぼけているみたいにモノクロな景色が広がっている。犬を飼っていたらこんな時間に散歩をしたくなるのかもしれない。朝の涼しさを吸い込んでまだ静かな街を犬と一緒にスニーカーで踏み鳴らせば眠気も吹っ飛ぶだろう。犬との日々を妄想してふにゃふにゃになった頬っぺたを引き締めるべく、香澄は洗面所へと向かった。

 誰かが家に来るときというのは想像以上にそわそわするものだ。なんてことはない家事をこなしている時もふといつ来るか分からない友人のことを考えてしまう。そんな時間は香澄にとって嫌なものではなかった。それは訪ねてくるのが灯だからかもしれない。近頃の香澄は灯との距離感を測りかねているが、それでも灯が嫌な人でないことは確かだった。その証拠に、インターホンが鳴ってモニターに灯の姿が映っていたのを見た香澄は胸の底にふわふわと暖かいものを感じた。


「入っていいよー」


 モニターの下に付いている『ロック解除』のボタンを押して灯を招き入れる。この部屋に灯が来るのは久しぶりかもしれない。来ても大して何かをするわけでもないが、扉が開く音を聴いて香澄はどこか嬉しくなっている自分に気が付いた。


「おじゃまします」


 ほんの数日会っていなかっただけなのに休日に聴く灯の声はなんだか特別で、それは灯という存在が友人とか恋人とかではなく「灯」というカテゴリーなのだと表しているようだ。その分類法は人との距離が不明確な香澄には丁度よかった。今日は「灯」として接することにしよう。そう決めると、香澄自身も驚くほど気持ちが軽くなった。


「おはよ」

「おはよう、灯」


 出入口へとつながる短い廊下へと香澄が顔を出すと、灯はどこか安心した表情で香澄を見下ろしていた。このまま今日をこの部屋で独り一日を過ごしていたらどんな気持ちを抱えていただろう。

一人になれるのは一人でいる自分を許せるからだ。一人を好きになるのとは少し違う。誰かといることのできる自分を失いつつある香澄は一人でいる時ほど失った人のことを想うだろう。会うことに不安はあったけれど、やっぱり灯が来てくれてよかった。香澄はそう安心している自分を受け入れるように灯の手を引いて部屋へと招き入れた。


「ほら、ケーキ買ってきたよ」


 こういうものを優しさと呼ぶのだろう。香澄が受け取ったケーキの箱はあの日二人で行くはずだった店のものだった。

朝早くに起きてメッセージを送ってきた灯はケーキ屋の前で店が開くのを待ったりしたのかもしれない。きっと恥ずかしくて言ったりはしないのだろうけど、灯はそういうことができる人だ。そして香澄は灯のそういうところが好きだった。


「紅茶入れるね」

「何かやることある?」

「機嫌よく待っていただければと」

「了解しました」


 背の低いソファに身を投げ出して日向ぼっこを始めた灯を見届けると、香澄は棚からティーパックとポットを取り出す。香澄はポットを火にかけている間が好きだ。やることが決まっているため、何の雑念もなく食器類の準備に取り掛かることができる。部屋にダージリンの香りが広がるまでの数分間は本当に短く、魔法をかけたように香澄の前には見事なケーキセットが出来上がっていた。


「持つよ」


 赤と紫で彩られたミックスベリータルトの光沢に見惚れていたからだろうか、香澄は背後に灯が立っていることに全く気が付かなかった。いつもならにっこりと笑って「よろしく」と言っていたのだろう。けれど香澄は振り向いて灯の顔を見ることもできず、ただ「ありがと」と呟くだけだった。

 時々こういう瞬間がある。別にダメなわけではないけれど、どこか胸の底にぎこちなさが残るような瞬間。以前の自分ならどうしたのだろうと考えてしまうのはあまり良くないのだろう。それでも香澄はつい昔の自分をなぞり切れていないことに気付くと、間違いを指摘されたような居心地の悪さを覚えた。


「香澄」

「ん?」

「これでよかった? どれにしようか悩んだんだけど、これが好きかなって思って」

「うん、これ好き」


 こんなに真っ白に塗りつぶされた部屋では少しの憂鬱な表情も目立ってしまう。本当は今の笑顔もわざとらしくないかと不安になったけれど、香澄はそれを隅に追いやるようにコーヒーサーバーに入っているダージリンをティーカップへと注いだ。


「いただきます」

「はい、いただきます」


 朝から食べるタルトは特別だ。甘酸っぱさに思わず顔を見合わせて笑っている時の香澄はカロリーのことなんて頭にはなく、ずっと忘れることはできない朝を精一杯味わっていた。朝から家でタルトを食べる仲をどう言い表せばいいのかは分からないが、この距離感は丁度いい。それゆえに香澄の目にはこの調和が幻のように映った。

 本当にこの時間は目の前にあるのだろうか。望んだならば再び灯と共にこの時間を過ごすことができるのだろうか。

 それは今の香澄の心の中が幸せに満ちているからこそ起こった戸惑いだった。

 あまりに長く続いた不安は香澄の心を憂鬱に慣れさせ、この部屋に訪れた些細な幸せさえも幻のようにしてしまう。


「灯」

「ん?」

「辛いことがあったら、どうすればいいのかな」


 灯は少し考えて口を開いた。


「それは、香澄の方がよく知ってるんじゃないの? 前の香澄は幸せそうだったから」

「そっか」


 今は幸せじゃないもんね。そう言おうとして香澄はやめた。

 大切な時間をそんな言葉で傷つけたくはなかった。

 いつも通りをなぞっているつもりでも、灯に抱く感情は日々どうしようもなく変わっているのだから。

 甘いクリームが口の中で溶けてなくなる。その日から、灯との繋がりはぱったりと途切れてしまった。

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