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 幸運が限られた者の手の中にあるのなら、それを握っているのは己を幸福であると信じている人間だ。その点で言えば、浅間香澄は幸福の所有者であった。

 日々当然のように通り過ぎる交差点。同じ制服を着た集団の中で香澄は決まって空を眺める。腐食した看板の上から伸びる飛行機雲は、チョークで線を引いたように彼方上空を横切る。どうやら大陸から飛来する汚染物質はここまで飛んで来ないらしい。それくらい透明な青空であった。

 もしも人工衛星がこのちっぽけな交差点を見つめていたとしたら。俯き加減に通り過ぎる人の中で一人空を見上げる少女に目を止めるだろうか。GPSを頼りに進んでいく人混みの中、自分だけが宙飛ぶ英知の結晶体を見返している。

 香澄はよくそんなことを考えた。視点は壮大なのに、考えることは矮小。けれど、彼女は無遠慮なほど真っすぐと空を捉えていた。

 変わらぬ日常は慈しまなければならないが、些細な変調はさらに大きな心で愛さなくてはならない。浅間香澄は今日見た青空と飛行機雲を忘れはしないだろう。そして、その記憶は横断歩道を渡った先で待つ西春灯の姿へと繋がるのだ。


「香澄、おはよ」

「おはよ。どうしたの? そんなにニコニコして」

「香澄は変わらないなと思ってさ」


 遠くから見れば香澄も灯も同じ目的地を目指して動いていく集団の一部だ。不揃いに散らばった人影はアメーバのように形を変えて歩道を進んでいく。けれどアメーバの住人にとってはその適当に並べられた影の配置こそ世界そのものなのであった。


「そうかな。灯の方が変わってないと思うけど」

「いーや、俺はめちゃめちゃ変わってるって。飽き性だし」

「それって女の趣味のこと?」


 誰だって他人が不用意に近づいてくるのは不快だ。入って来て欲しくない距離感は人それぞれかもしれないが、それでも絶対に駄目な距離というものは存在する。いくら他人とは言っても無暗に踏み込んで拒絶されたくはない。

 それが分かっているから、人は適切な距離をとる。


「はぁ、香澄は分かってねえなー。俺はこんなに一途なのに」

「はいはい、一途な西春君はデート中に他の女の子をガン見したりしないもんねー」

「あれは事故みたいなもんじゃん? 生理現象っていうかさ?」

「じゃあ、私が灯をグ―で殴りたくなるのも生理現象?」

「いや、まじでやめてそれは」


 香澄は距離感が曖昧な人間だった。

 まばらに広がる集団の中で一目見れば特別な関係であると分かる距離。香澄は自分でも気づかないうちにその距離に入り込んでしまう。見えない壁の隙間を縫うように誰かの懐に収まり、いつのまにかその人の大切な人になっている。それは香澄にとって、決して特別なことではなかった。


「お前みたいな浮気性はこうだ!」

「ちょっ、腹は弱いからやめろって」

「弱いからやるに決まってるでしょ? あとここも」


 二人の口から告白めいたセリフが出てきたことは一度もない。ただ一緒に居ることが心地いいからそばにいる。周りの生徒たちが一人で通り過ぎていく中、こうして二人でいた方が自然な気がするから二人でいるに過ぎない。

 だから灯の耳に向けられたその吐息も、香澄にとっては特別何の意味もないただの吐息なのであった。


「くっそー、また変な声出ただろー」

「ほんと、灯は耳弱いよね」

「俺は繊細なんだよ。香澄と違って」

「そんなこと言ったら、またするよ」

「あー、すいませんでした香澄さま」


 春の冷たくも柔らかい風が香澄の髪を攫う。

 攫われた髪は肌を撫で、重力によって元の場所へと戻っていく。

 香澄は春という季節の中でもその瞬間を気に入っていた。もしも香澄の髪の繊維が複雑な形状をしていて、少しの風でも朝のセットが崩壊してしまうのならば香澄は決して春を好きになることはなかっただろう。

 幸い、香澄の髪は一本一本に記憶が宿っているかのようにあるべき姿を取り戻していく。香澄は春が来るたびに自分の髪に感謝し、風を吸い込んだ髪をさらりと撫でる。

 何の変哲もないただの私立高校生の一人。取り立てて何かに打ち込んでいるわけでもなく、今のところは世界を変えるほどの才能があるというわけでもないようだ。それでも香澄は自分が幸せだと信じ切っていた。どうして幸せなのかと訊かれても確固たる答えなんて存在しない。ただ幸せに思えるから幸せなだけ。香澄にとっての幸せはそんなものだった。

 そうして「いい日」を感じながら校舎に入り、靴箱を抜ける。人工衛星の目が届かないここでは誰が素晴らしい日常を見届け、記憶にとどめるのだろう。

 廊下にひっそりと飾られたフリージアに気付く人、気付かない人。ここの衛星はすべてを記録しているわけではない。けれど、それは欠点とは少し違う。香澄にとって、こちらを一方的に見下ろしている宇宙在住の機械も素敵だが、まばらに動く一人一人もまた愛おしいのであった。


「今日、美也子に呼ばれてるから」

「ん、わかった」


 それはつまり、「今日は美也子と昼食をとるから一緒には食べられないよ」という意味だ。美也子というのは灯と同じクラスの女の子で、二人は中学校からの付き合いになる。同時に美也子は香澄の友人でもあり、いわば二人で灯をシェアしているようなものだった。

 仲の良い男子が他の女子と仲良くしていたら腹を立てる、というのが恋愛界もしくは人間界の定石かもしれない。けれど香澄としては腹が立たなかったから腹を立てなかった。むしろ、美也子という楽しい友人ができて嬉しかった。

 美也子は女友達とのクリスマスパーティのときは自分でケーキを作るくせに、バレンタインデーにはチョコを作らないような子だ。

 美也子はよく灯について「人生のおまけのようなもの」と言った。灯という男の存在はあくまでおまけ。それも灯は決して美也子の人生には組み込まれていない。そして灯もそれを分かった上で仲良くしていた。


「かすみー、おはよ」

「おはよ、今日は早いね」

「へへへ、めちゃ早く寝ちゃってさ」


 香澄が教室に入ろうとしたところ、背後から馴染みのあるのんびりとした声で呼ばれた。

 声の主である絹川御影は声も顔ものんびりした感じの女の子で、香澄とはこのクラスになった時からの付き合いだ。日ごろから遅刻の常習犯にも関わらず全く悪びれる様子のないところから、通常とは違う時間軸を生きているものと思われていたが、今日はまともな時間に来たらしい。


「まったく、少しは香澄を見習えよな」

「いでっ」


 御影の頭を叩いたのは藤峰咲葉という長身の女子で、こちらも香澄のクラスメイトであった。ボーイッシュな見た目やクールな性格、またどことなく生活力に乏しい御影とよく一緒に居ることから香澄は心の中で保護者のようだと呟いていた。

 教室内の人間関係について、様々な学問的見地から考察しようという向きもあるようだが、この三人はそのような深いことはまったく考えずにただ気の向くままに集まった三人であった。

強いて注釈を付けるとするなら、この性格の違う三人が集まるようになったのは香澄の天才的かつ適当な人間関係構築能力によるものが大きいということだろう。香澄視点で述べるならば、「気が付いたらそこに居た」というのがこの三人の実態なのであった。


「ほら、教室入ろ? こんなところいても邪魔になるし」

「ほいほい」


 すでにいっぱいになりつつある教室は独特の温もりと周囲の喧騒とは隔絶された空気を漂わせ、窓際にある香澄の席は朝日をめいいっぱいに浴びて光っていた。隣には咲葉、後ろは御影の席になっている。席替えのないこのクラスでは、日当たりのいい席も前の席の男子も何もかもずっとこの配置だ。


「あー、でもやっぱ駄目だな」

「何が?」

「めちゃ寝たはずなのにもうすでに眠い」

「そんなこと言ってると、一番前の席にされるぞ?」

「そうなん―――」


 ガンッ。コンセントを抜かれたモニターのように香澄の視界が真っ暗になる。眼球を押しつぶされるような鈍い痛みが走り、痛みと反響しあうように白い光が視界に走った。

 それは香澄が見ていた春の世界とは真逆の光景であった。痛みと恐怖と不安とが目まぐるしく駆け巡る脳中で、香澄はこの不気味な現象の正体を確かめようともがいた。浮かんだのは「モノクロな世界」という言葉だった。

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