二度目なのですが、とりあえず逃げようと思います
勢い任せのプロローグ的なお話し。ゆるふわ設定にご注意ください。
ゆるゆると目を開いて、視界に入った天井に、どこかで見覚えがある気がした。
自室ではない。単身者向けの安いワンルームの部屋は、天井も壁もシンプルな白っぽい色をしていた。今見ている天井のように、いかにも拘ってますと言わんばかりの模様は入っていない。
身を起こさないまま目線だけをぼんやりと彷徨わせる。この部屋は自室より広そうだ。自身が寝ているのがやわらかな寝具に包まれた状態であることや周囲を見渡した感じで判断すると、寝室であるらしい。
コンコン、と軽くノックの音が響いて、三拍ほど間が空いた後、くぐもった声が続いた。
「失礼致します」
ノックの音でのろのろと身を起こそうとしていたので、膝を曲げ肘で上半身を支えているような中途半端状態で、その声の主の入室を見届けることになった。
入ってきたのは、女性。一見してメイド服と思えるその姿に、時が止まったようにびしりと体を強張らせる。
「まぁ、…お返事を待たずに失礼致しました。起きておられたのですね」
にっこりと安心させるように笑った女性は、するすると音も無く近寄ってくる。
「どこか具合の悪いところはございませんか?念の為昨夜医師に診てもらった時には異常はないだろうとのことでしたが」
「……はい、特には」
寝起きだからか少し声が掠れる。完全に身を起こして咳払いをすると、すっと目の前にガラスのコップが差し出された。
「どうぞ、お飲みくださいませ。お水でございます」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、受け取った水を一口飲む。ひんやりとした喉越しに、あぁ、喉が渇いていたのだなぁとひとごとのように思った。
「お食事はいかがなさいますか?食欲がおありでしたらすぐにお持ち致しますが」
空になったコップを女性に渡しながら、その問いにどう答えるべきか逡巡する。自然と落ちた目線が、自分が着ている服に止まった。
「……その、先に着替えたいのですが」
着ていたのは、見覚えの無いものだった。いつも自室で着ていた、よれたTシャツでも高校時代のジャージでもない。キャミソールタイプの白いワンピース。自分が寝巻きとして使用することのない類のものだ。道理で肩も足も心もとないわけだと納得した。
女性は心得たとばかりにひとつ頷いて見せた。
「あちらにあるクローゼットにあるものであれば、お好きなように着て頂いて構いません。ご準備が整いましたらお声掛けくださいませ」
釣られたように指し示された方向を確認すると、それを見た女性は軽く会釈をして部屋から出て行った。
彼女の後姿が完全に消えた後もぼんやりと扉を見つめていたが、一度頭を振って立ち上がる。
あのメイド服、うっすらと残っている記憶が間違いでなければ、ここは、自分の家でないどころか、地球ですらない。
クローゼットの中身を確認し、僅かに落胆する。見るからに上質そうな寝室からも予想できるように、かけてある衣類も上質そうなものだった。まぁ仕方ないか、割り切ってその中でも装飾の少ないシンプルなワンピースを選ぶ。本当ならズボンが欲しいところだったが、見事なまでに女性物のワンピースやドレスで埋まっていたので諦めた。
着替えを終え、室内をもう一度ぐるりと見回す。ざっと見た限り、自分の荷物と呼べるものは無さそうだった。
正直、前回と違って、どうやってここに来たのか、どの瞬間で来たのかがわからない。目が覚めたらここにいた、ということは、寝ている間にこちらに飛ばされたのだろうか。
まぁ、万が一荷物があっても今回は諦めよう。
己が命のほうが何万倍も重要である。
「うまくいきますように」
ため息と共にそんな言葉をこぼして、重い足を引きずるようにして扉へと向かった。
異世界に召喚されたことがあると、他人に話したことはない。
というか、自分でも経験する前に聞いていたとしたら、まず当人の頭や精神の状態を疑っただろう。夢の話?と本気に取らず聞き返したかもしれない。
けれども私はそれを実際に体験した。
召喚された理由は、瘴気の浄化。
この世界ではなにやらよくわからない原理で黒い霧が発生するらしい。それが瘴気と呼ばれる。瘴気は動植物に異変をもたらしたり、濃く固まればおぞましい化物を生み出したりする。故に消滅させる必要がある。そして、それが出来るのは、神が選んで遣わせた異界の人間――その国では"神子"と呼ばれる人間だけであるのだという。
流れからいってまさかと思っていたが、貴女がその神子様です、と言われた時に顔が引きつったのは仕方ない。
神子の役目は瘴気を払うこと。瘴気と呼ばれるものは召喚を行った国だけでなく他国にも発生するのだという。発生理由はわかっていないため、どうやっても発生した後の対処しかできない。つまりは、世界各国巡って消して来い、ということであるらしい。
当時21歳、事務員。学生時代どころか幼少期にさかのぼっても外で遊ぶより家の中で過ごすことがほとんどだった超インドア派女に、なんと酷な使命であることか。しかし相手は基礎体力をつけよ、最低限自分の身を守る術を学べ、馬くらい乗れねばならんなどと訓練に訓練を重ねてひと月程度。すでに身も心もぼろぼろだったのに、そんなことを長々と続けているだけでは終わらないと追い払うようにして旅に追い立てられた。道中、色々、ほんとうに色々とあったが、国をも越えて年単位で各地を旅して、その役目自体はどうにか終えた。そして呼び出された国の城へと戻って早々、それこそ休む間もなく早く元の世界へと帰ってくれと召喚時同様唐突に現代日本へと帰された次第である。
そんな記憶はあれど、夢だったかもしれないと、今ではそう思う。現実世界の日本へと帰ってきて、もう三年が経っていた。
思い返せば、戻されただけ幸せなのかもしれないと思うのだ。
簡潔に言えば、用済みというだけだろう。その理由は、金銭的に負担だとかぐらいしか思いつかなかったけれど、向こう側にはなにかいろいろと事情があったのかもしれない。ともあれ、処分方法が『元の世界へと帰す』程度であるなら良心的だろう。未開の地へと放り出したり、命を取ったりすることのほうが、遙かに簡単だったかもしれないのだから。
なぜもう一度、呼び出されたのかはわからない。
けれど何か帰すだけでは済まない問題があって、この命が、存在が邪魔になって確実に葬り去ろうとしている可能性だって、あるかもしれないのだ。
もともと、こちらに判断を委ねるようなひとたちではなかった。ほとんどやることなすこと決められていて、強制されていたのだ。自分の自由意志でといわれていたならば、旅をすることなどなかった。体を動かすことが嫌いなわけではなかったが、体力づくりも護身術の稽古も本当に憂鬱だった。何がいやって周りの人間がいやだった。人間関係っていついかなるときでも重要だ。
ついでに言えば、いわゆるチート能力もあったので、それを利用したいと今更ながらに思い立ったのかもしれない。個人的には戦力としては数えられないと思うが、彼らは考え方が違うのだ。何か有効利用する方法を思い立ったのかもしれない。
ともあれあまり良い思い出があるわけでもなし、個人的には二度とかかわりたくない。
浄化の旅でもチート能力のおかげでわりと杜撰な扱いだった。同じような思いをするのはご遠慮願いたいものだ。
扉が閉まって、ゆっくり五秒数えた。
そろりそろりと足音を立てないように気をつけつつ、扉を見たまま後ろへと下がる。後ろに回した手が、窓にあたった。肩越しに振り返って、その窓が十分な大きさであることを確認する。
もう一度、扉を確認。開かれる気配はない。食事を用意してくれると出て行った女性は、口ぶりからしておそらくそんなに時間をおかずに帰ってくるだろう。もしかしたら今回自分を呼び出した誰かを連れてくるかもしれない。
逃げるなら、今しかない。
窓を開ける手は、少し震えた。ゆっくりと押し開く。大きな音を立てることはなかった。腕と足の力を使って窓枠に乗りあがる。三年という月日で衰えたはずの筋力ではそれくらいでもきつかろうと思っていたのだが、とくにだるさを感じることもなかった。
窓の下をさっと見渡すが、見張りの兵士などは見当たらない。もともとそういう役目の人間がいないのか、運が良いのか。
どくりどくりと大きく跳ねる心臓をなだめるように息を吐く。
「死なない加護、生きてりゃ良いんだけど」
あれば御の字、なくても多分死なないだろうけれど逃げるのは不可能になる。
まぁ、ここにいたってどっちに転ぶかはわからない。賭けだ。
覚悟を決めて、二階にあった現代日本の自分の家よりは幾分か高い場所にありそうなその窓から飛び降りるべく、全身に力を込めた。
◆◆◆
その日何時に無く上機嫌だったのが嘘のように、開け放たれた窓を見た瞬間、兄は低く低く呻いた。
「……これは、どちらだ」
顔面蒼白になった侍女が、はじかれたように寝室へと入っていく。数秒と経たずに帰ってきた彼女は、こちらを見ながら首を横に振った。いや、こちらに向けて報告されても困る。だが目は窓へと向けながらも侍女の行動は視界に入れていたようで、地を這うような声をそのままに言葉を発する。
「探せ。ひとりで外へ出たのならそう遠くは行っていないはずだ。自分から出て行ったのなら理由があるのだろうから場所を割り出したら追うだけに留めろ。俺が行く」
「…兄上、万が一、」
「誰かがここから連れ出したというのなら捕獲しろ。連れ出したヤツも含めてだ。殺すなよ、楽には死なせん。――行け」
念のためと震えそうな己の唇を叱咤しつつあげた声は、兄によって引き継がれた。
短い合図にはじかれたように周囲が動き出す。
一応、自分がここでの主になるはずなのだけれど、とは思うが、自分だってこの状態の兄に逆らえるとは思わない。
兄はあらぶる気持ちを沈めるかのように大きな息をついた。そしてゆったりとした足取りで窓へと向かう。俺はそれを一歩遅れてついていく。
「ゼルド」
「何でしょうか」
「俺はお前を恨むぞ」
窓の外を見ながら、静か過ぎる声が兄から発せられる。心臓を鷲掴みにされたような錯覚を起こして、無意識のうちにぶるりと身を振るわせた。恐ろしい。わが兄ながら本当に恐ろしい。
「申し訳、ありません」
一応謝罪の言葉を口にしておくが、おそらく兄にとっては何の価値もないだろう。そんな思いを裏付けるかのように、彼はこちらに一瞥すらくれない。
兄の、神子に対する執着は並々ならぬものがあると、この三年いやというほど思い知らされてきた。
三年前、彼女が消えた時、兄は国を変えることから始めた。
そして同時に彼女を再び呼ぶ方法を模索し始めた。
ようやくの思いで、彼女を呼ぶための条件が全て揃って、実際に彼女が兄の手の内へと戻ってきたのが昨夜。寝ている彼女を起こすのは忍びないからと笑って部屋へと運んだ兄は、隠す気もなさそうな満ち足りた顔をしていた。
それが一転して、今である。
何故彼女は逃げたのだろう。いや連れ出されたのかもしれないけれど。ざっと見た限り争ったような後はないように思えた。眠らされて運び出された可能性も皆無ではないが。
今一度兄の横顔を見やって、小さく息を吐いた。体の真ん中あたりがきりきりと痛みを訴えている。
早く見つけ出して、兄の前へと差し出さなければ。
異界の女性にこの国が真に平和となるための尊い犠牲となってもらうことに若干の後ろめたさを感じつつ、この逃走劇が穏やかで誰もが幸せになれる結末で幕を下ろすことを、国を治める人間として切に願った。
唯一名前が出てきた彼は苦労人の第三者。