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居酒屋キャッツらいふ

作者: 小玉 幸一


“にゃーん。”


 一つ鳴いてみる。日の出を迎えて間もない早朝、人っ子一人いない店内で僕の声は間延して聴こえた。

 夜のうちに冷えきってしまった店内は、磨りガラス越しにはいる朝の光ですこしずつ暖まっていく。

 僕はその光を浴びて太陽の暖かさと優しさを知った。


 職業柄、日の出ている日中や人前では、僕一匹で勝手に移動することは許されない。だから朝日を浴びるこのひとときは、この場所でよかったと思えることの一つである。


 僕の先輩はいつも店の奥にいるから、太陽の暖かさや優しさを知ることがない。丸まって寝息をたてる彼を見て、僕は眉尻を下げた。


 でも黒い毛色をした先輩には、案外あの日陰が似合っているのかもしれない。日陰者といっているようで、こんなこと訊かれたら彼に怒られそうだけど……。


 店内を見渡す。綺麗に掃除がゆきとどいているのをみると、ご主人の真面目さがよくわかる。


 この店の名前は「六助」小さな町の小さな居酒屋である。


 店内はL字型のカウンターに席が八つと、四人座りの小さな座敷席が二つ。「六助」なんて名前だから店主はどんな渋いおっさんなんだと思うかもしれないけれど、これが意外と若くて二十八歳の青年である。


 店名の由来は彼の名前、六反田裕助からとっているらしい。

 創業はまだ二年目の新参者ぺーぺーである。


 営業時間は夕方六時から深夜二時まで、毎日夜中まで働くご主人は、今はまだぐーすか寝ている頃だろう。起きるのはいつもだいたい正午頃だ。


 僕はうーんとのびをして体の隅々に光を浴びる。毛先がひろがり空いた隙間に熱がたまる、地肌までじんわりととどく太陽光がかすかににおいたった。これがお日様のにおいというやつだ。

 鼻をひくひくさせながら、僕はいまだにまどろむ瞳を細めてお腹の毛を優しく舐めた。


“びぃゃ!”


 驚いた、濃い鉄の味に全身の毛が逆立ち、思わずぶるりと震えてしまう。こいつはあれだ、いつも抱えている大判のせいだ。しかしこればっかりは仕事道具なのだからどうしようもない。


 ふと、壁に掛かった時計をみる。壊れて動かなくなってしまった振り子は、先輩が飛びついて壊してしまったのだそうだ。それでもなお動き続ける短針と長針に賛辞を!

 長針がカチリと小さな音をたてると、二つの針は縦一直線になった。


“まだ六時か。”


 仕事の時間までまだ随分と時間がある。もう一眠りしようかと、前の両足でふみふみ、寝心地の良さを確める。

 それからくにぁーとあくびを一つ、仕事までに左肩をいたわっておこう。



        □□□□□□□□□□



 僕がこの店に来たのはちょうど一週間前のことになる。

 客足がのびないと困っていたご主人が、僕の力を頼ってきたのだ。


 先輩はこの店の創業当時からいるのだが、彼は右手で招く、つまり金運を招くことを専門としている。

 ご主人は右手だとか左手だとか、僕たちの業界について詳しくなかったようで、常連さんに指摘され、左手で客を招く僕を新たに店に迎えたというわけだった。


 三毛の僕と黒の先輩が揃った姿をみて、ご主人は僕らに名前をつけてくれた。


 左手を挙げる僕が「あ~ちゃん」。僕は男なのに女々しい名前だなぁと思ったのだけど、Perfumeのあ~ちゃんみたいに呼ばれるのはちょっと嬉しい。


 右手を挙げる先輩には、もともと治五郎といういぶし銀な名前がついていたのだが、僕が来たことにより「うん坊」と改められた。

 どうやらご主人は僕ら二匹を、金剛力士の阿形と吽形になぞらえているようで、命名後のご主人の表情はとても満足気だった。


 僕が来てしまったばっかりに治五郎改めうん坊になった先輩に対しては、変な名前になってしまったことを常々申し訳なく思っている。


そのことをいうと先輩は、


“人間が決めた名前なんかにこの俺が縛られるとでも思ってんのか?俺は俺の仕事をするだけだ。お前が気にするよーなことは別に何もねーんだよ。”


 という。


 いかにも気高い職猫といった風でとてもカッコいい、それ以来僕は先輩に憧れを抱いているのだった。


 でも一度、僕が先輩のことをうん坊と呼んでしまったときには、めちゃくちゃキレたのだけれど。


 逆鱗に触れられたときのような鬼の形相をしていたので、僕は涙目になった。それからというもの先輩のことをうん坊とは決して呼ばないようにしている。

 これからも気をつけたい。みんなも気をつけてね。



        □□□□□□□□□□



 午後二時頃、物音で僕は目を覚ました。


 二階からご主人がおりてくる音だ。店舗兼住居のこの建物は二階がご主人の居住スペースになっている。外に取りつけられた鉄製の階段をカツンカツンと靴底が叩く。


 僕は慌てて姿勢を正して『千客万来』と彫られた大判を抱え直した。


 先輩を横目で見ると、すでに『商売繁盛』の大判を抱え右手を高くで招いている。

 さすが先輩、その招き姿は実に凛々しく見習いたいものである。僕は先輩をにして左手を高くで招いた。


 ご主人はガチャリと裏口の扉の鍵を開けると、寝間着姿で大あくびをしながら厨房に入る。いままで二階でゴロゴロしていたのだろう、天然パーマのボサボサの髪と相まってその姿がだらしなく映る。


 ご主人は店内をゆっくりと横切ると、出入口の扉を開けて空気の入れ換えをする。塞き止められていた外界の音がどっと押し寄せて僕は顔をしかめた。

 店におりてきて初めにこれをするのが彼の習慣であった。


「あーちゃん、今日もよろしく頼むよ」


“合点承知!お任せあれ!!”


 ご主人は僕の頭を優しく撫でる、これも毎日の習慣だ。

 先輩もまた同じように撫でられるのだが……。


「うん坊、今日もよろしく頼むよ」


“…………おう。”


 額にはピクピクと大きな青筋が浮かんでみえる。相手がご主人であるから我慢をしているものの、うん坊と呼ばれるのにはやはり耐えがたいものがあるらしい。ご主人名前変えたげて!


 そんな先輩は創業以来、毎朝ずっと頭を撫でられ続けているためか、頭と耳先の毛の色素が薄くなっている。もとが黒であるからそれが余計に目立つ、僕は眉尻を下げた。


 ご主人は六助のロゴが入ったオリジナルの甚平に着替え、ボサボサの髪を綺麗にまとめて後ろで縛る。

 まさに居酒屋の店主といったよそおい、これがご主人のお仕事スタイルだ。


 よしっと気合いの入れたご主人は、


「じゃあ、買い出し行ってきまーす」


 人の居ない店内に言葉を残し、大きなエコバッグを二つ、ズボンのポケットにねじ込んで近所の商店街へと向かう。


“行ってらっしゃい! お気をつけて!”


 僕は職業柄、手を横に振ることができないので、代わりに招いて見送った。


 ご主人が出ていくと、すぐに先輩はくにゃ~とあくびをして後ろ足で頭を掻かいた。暇だった僕は先輩が相手してくれるのではないかと期待を込めてじっと熱い視線を送った。少し可愛らしく、にぁ~などと猫なで声を出したりしてアピールとかしてみる。


 しかし先輩は、猫の気を引くために猫耳をかぶり、片手に猫じゃらしを持ってにぁーにぁーとはしゃぐ独身のアラサーOLでもみるような目で僕を見据えた。そして鬱陶しいハエでも追っ払うように長い尻尾を大きく振って小さく舌打ちをすると、体積さえも減ったんじゃないかと疑わしくなるほどに体を丸めて目を細め、やがて瞑る。やたら鼻息が荒い。


 なぜご機嫌ななめなのか意味がわからないが、いつも先輩はあんな感じなので気にしていてもしょうがない。うん坊と呼ばれてしまったからかな? やっぱりご主人名前変えたげて!


 軽くあしらわれてしまった僕は首を竦めて出入口へと向き直り、前足をお腹の下に折り畳んで香箱をつくって座った。ピラミッドを守るスフィンクス然とした姿勢でこの居酒屋を守るのだ。といっても人なんて来ないけどね。営業中でさえ来ない。僕のせいだ。頭を抱えた。


 この「六助」は繁華街の大通りから裏道へ入って、更に裏道へ入った袋小路の脇にある。隠れ家的雰囲気の居酒屋といえば格好はつくが、隠れすぎていてお客がみつけきれない。致命的である。世が世なら重宝されていたであろう本気の隠れ家的物件だ。


 裏の裏は表であるが、裏道の裏道は深淵である。誰もが好き好んで覗くようなところではない。であるからして常連客となるお客は皆一様にクセがすごい!


 僕はまだ働き始めて一週間しかたっていないからその全容は把握しきれていないが、昨日なんてこの平成の世に髷を結った初老のおじさんが来ていた。

 こういう人に重宝されてしまう店なのだ。僕はあまりに時代錯誤な髪型に驚きすぎて「大クセ侍」というあだ名をつけてしまった。でもさすがにいい過ぎてしまったなぁ、と後悔もしている。

 新しく店に入った僕に餞別だといって百円くれたし、すごく優しい人なのだ。せめて次からは「徳川綱吉」と呼ぶことにしよう、ほらあの人って動物愛護のパイオニアだし。


 ご主人が買い出しに行っている間、また寝てもよかったのだがそうする気分にもならず、仕事に備えて左肩をゆっくりと回していた。


 あたりまえだが、仕事中はずっと左手を招かなければならない。

 するとやはり肩への負担はとても大きく、ストレッチもせずに仕事にのぞむと、変に肩を痛めたり、いつもより肩こりがひどくなったりする。


 僕らも何かと大変なのだ。


 業界内では金運も客も両方招いてやろうと、両手で招く変わり者もいるそうだが、想像しただけで辛そうだ。


 しかし人間からの人気はあまりないらしい、まさに骨折り損のくたびれ儲けというやつだ。

 やはり人間も一方だけを専門にしている片手招き(スタンダード)の職猫に信頼を寄せているのだろうか。


“おい、あ~ちゃん。”


 急に先輩が話しかけてくる。


“なんですか先輩?”


“どうしたんだよお前、今日はやけに張りきってるじゃねーか。”


“そ、そうですかね?いつものストレッチですよ。先輩もしてたほうがいいんじゃないですか?”


“うるせー、誰にアドバイスしてやがるんだ。”


“す、すいません。”


“いつもより入念だろーが、もう三十分もストレッチしてるぞ。”


“うっ……。”


“なんかあったのかよ?”


 赤面する。張りきっていたのがバレていた。

 先輩の洞察眼は相変わらず凄い。


“いや、それがですね。”


“おう。”


“先輩も気づいていますよね、ご主人のこと。”


“あー、旦那のことか。”


“はい……ご主人、最近なんか元気ないんですよ。”


“まーな、でもまぁ俺にはどーすることもできねーしな。”


“はい、わかってるんです……僕ですよね……。”


“…………は?”


 最近、ご主人は元気がない。さっきはまるでそうみせないように、僕たちの前では振る舞っていたのだけれど、僕にはわかってしまう。たった一週間だか僕だってご主人を想う気持ちは強い。


 洞察眼の鋭い先輩は僕より早くからこのことに気づいていただろう。できれば直接僕にいって欲しかった。


“わかってるんですよ、僕がこの店に来て一週間。ご主人はせっかく僕のことを信頼してくれているのに、客足がのびるどころか減ってますもんね。僕がうまく招けていない証拠です。”


“……ん、いや。それは関係ないだろ。”


“あるんですよ、わかってるんです。あまり僕に気を使わないでください。”


 先輩は口調や態度はアレだが、根はとても優しい猫だ。しかしそんな先輩の優しさに甘えてばかりもいられない。


“お客を招かないことには、先輩だって金運を招けないですもんね。ただでさえお客の多くない店だったと訊くのに、僕のせいで昨日なんて閑古鳥が鳴いていましたよ。猫が居ながら、ほんとに面目ないです。”


“う、うーん……論点がちょっとずれてねーか?”


“でも、今日は頑張るんです。頑張ってお客をたくさん招いて、ご主人を元気にしてみせるんですよ!”


“お、おう……頑張れ……。”


“はいっ!”


 僕と先輩がお喋りをしていると、ご主人が買い出しから帰ってくる。


 僕らは姿勢を正した。


「ただいまー」


“お帰りなさいませ、ご主人様っ!”


 いつもより張りきって迎えると、先輩からそのいい方はちょっとやめとけ、といわれた。何故だろう、不服である。


 ご主人はパンパンになった二つのエコバッグを両手にずっしりと下げ、額に汗を浮かべている。


 誰かに頼んで一緒に運んで貰えばいいのにと、いつも思う。こんなときに役に立てない自分が歯痒い。猫の手は貸せないのだ。


 ご主人は厨房に入り、開店の準備を始める。米を炊いたりネギを切ったり、大鍋の料理を作ったりと、その他さまざまな仕事を手早くこなしてゆく。事前にやれることはできるだけやってしまうのだ。


 僕はこの時の包丁が軽快にまな板を叩く音や、水道水がシンクを流れる音が好きだった。



        □□□□□□□□□□



 午後六時、ついに開店の時が訪れた。


 ご主人は暖簾のれんを出して店前の提灯に灯りをいれる。店内にはすでに仕込みを終えたお料理の芳しいにおいが漂っていた。


 ここからは僕の力の本領発揮である。多くの人を招いて店を繁盛させねばならない。ご主人の元気は僕の左手にかかっているのだ。


“来い……来い……来い……来い……来い……来い……来い……来い……来てくれ……来てください……ほんともう来てくださいお願いします。”


“来たぁーーっ! いらっしゃいませー!!”


 暖簾をくぐって店に入ったのは、白髪頭のおじいさんだった。


「おっ、シバヤマさん。いらっしゃいませ」


「おじゃまするよ」


“じゃまなんてとんでもないで御座います、お越し頂き誠にありがたいぃぃいい!”


 先輩にうるせーと怒られて僕はしぶしぶ仕事に戻った。


 本日最初のお客なのだがでも残念、僕が招き入れたといえるお客ではない。このおじいさんはシバヤマさん、「六助」の常連さんである。僕の本来の仕事は一見さんを招き入れることにある。なぜなら常連さんになると招かずとも来てくれるからだ。といってもお客はお客、あまり我儘はいってられない。僕は一見さんを求め、左手に力を込めた。


「いつもありがとうございます、もう春だというのに日が暮れるとまだまだ冷えますね」


「そうじゃなぁ、桜もぽつぽつ咲いてきたというのに」


「今日もいつものでよかったですか?」


「ああ、熱燗で頼むよ。それとぶり大根ね」


「かしこまりました」


 シバヤマさんの注文はいつも決まってこの組み合わせだ。よほど気に入っているに違いない。


「六助」で出される日本酒は全国津々浦々、さまざまな銘柄が揃っている。

 その中でもシバヤマさんのお気に入りは超特選綾錦大吟醸『登喜一(ときいち)』、華やかな香りが特徴の日本酒だ。蔵元は宮崎の雲海酒造である。

 ご主人はお酒を瓶から徳利に移し、燗つけ機につける。僕らの嗅覚は人の数十万倍はあるから、その作業だけでも広がる香りが鼻腔を擽った。


“って、先輩!!”


“たまんねぇなぁこの香り、全国に名を馳せるだけのことはある。すっきりとした飲み口で、喉を通ったあともふわっと香りが鼻に残るんだ。”


“先輩! 姿勢気をつけてくださいね、人間にばれてしまいますよ!”


“バカいうな、この俺が姿勢を崩すとでも思うのか? 俺は仕事を途中で投げ出すような外道じゃねーよ。”


 カッコいい! 僕は瞳をきらきらと輝かせ、先輩に暑い視線を送る。恍惚こうこつな表情でお酒の香りに魅了されながらも、仕事に対しては決して手を抜かない。まさしく職猫技である。


 こんなカッコいい先輩だからこそ、猫にもかかわらず酒が似合うのだ。なんたって彼は根っからの酒好き、マタタビとお酒があったら迷わずお酒に飛びつくほどである。猫のアイデンティティーなんて先輩の前ではくそ食らえ、結構毛だらけ猫灰だらけである。猫としては変態なのかもしれない。


 シバヤマさんの前には今日のお通し、桜えびのお刺身が置かれた。桜えびといえば今がまさに旬である。一緒に添えられた大根おろしにポン酢をかけてともに頂く。大葉や、山葵を合わせてもいい。一口食べたシバヤマさんは、ほぉ~と思わず声を漏らした。


「この桜えび、凍ってるんか?」


「そうです、半解凍でお出ししています。ルイベというやつです。桜えび独特のとろっとした食感を楽しむにはこれが一番なんですよ」


「甘味が強いな、こりゃうまい」


「ありがとうございます」


 シバヤマさんはよほど気に入ったのか、桜えびのお刺身に舌鼓を打っていた。

 メインの料理とお酒が出てくるまでのこの時間も、居酒屋の楽しみの一つなのだそうだ(先輩論)。


 そうこうしているうちに熱燗もぶり大根もできたようだ。


「お待たせいたしました、登喜一の熱燗とぶり大根です。お注ぎしますよ」


「そうかい? 悪いね……」


 シバヤマさんの差し出したお猪口にご主人はお酌をする。そして一口。


「うーん……うまいっ、これだぁ」


 シバヤマさんは唸るようにして吐息をついた。

そのすぐ横で湯気をたてているのはぶり大根。甘い煮汁で煮込まれた大根は美しい鼈甲べっこう色に染まり、ぶりも薄くのった脂が表面をてからせ濃厚な味を想像させた。箸で軽くほぐすだけでほろほろと身が崩れてゆくほどに柔らかく仕上がっている。

 できることなら僕にも少しぶり大根を分けてもらいたい、美味しいよねぶり大根じゅるり。


「裕助、お前さん結婚はまだせんのか?」


「ははは、シバヤマさん、痛いところをついてきますね」


「お前さんもいい歳じゃろ。いくつになった?」


「今年で二十八になります」


「誰かいい人はいないのか?」


「それが、つい先日、彼女と別れてしまって」


「そうかぁ……もったいないのう」


 シバヤマさんはお猪口で酒をあおり、時おりつつくようにしてぶり大根をちびちびと食べていた。


 あんなちびちびとした食べ方をしていては、ぶり大根のぶりの美味しさの半分も楽しめていないじゃないか、と僕はいきどおる。

 ぶりはやっぱり口一杯に頬張るのにかぎる。脂ののった表皮に牙を突き立てるあの瞬間、口一杯に広がるあの味わい。噛み締めるたびに溢れる煮汁と、ぶりの旨味が混じりあい絶妙なハーモニーを奏でる。ぜひそうして頂きたい。


「でもまぁわしが思うに、これだと思った女は逃がしちゃだめだ……」


 ほろ酔いのシバヤマさんは真剣な表情でいう。


「まあ、わしも去年逃げられたんじゃがなぁ、わっはっは」


 酷いブラックジョークだった。

 結婚四十周年の年に離婚されたわいといって大笑いするシバヤマさんに、ご主人は苦笑いで対応していた。彼も苦労人である。


 ご高齢の方の自虐ネタは、重すぎてまったく笑えないことにおのおの気づくべきである。気を使って周りは忠告できないのだから。


 シバヤマさんが帰る頃になっても、新しいお客は誰一人として入っていなかった。なぜだ、こんなにも招いているのに。僕の中で芽生える不安が、むくむくと巨大なものになっていくのを感じてしまう。


「シバヤマさんいつもありがとうございます、またお越し下さい」


 勘定を済ませたシバヤマさんにご主人は頭を下げた。


「裕助……」


「はい?」


 出入口を開けて出ていこうとするシバヤマさんは、突然立ち止まり低いトーンでご主人の名前を呼ぶ。ふいに名前を呼ばれたご主人はすこし困惑した表情でシバヤマさんの背中をみた。


「たまにお前さんの作るぶり大根を無性に食いたくなるんじゃ」


「あ、ありがとうございます」


「元妻の作ったぶり大根の味に、似ておるからかもしれんがのぉ」


「え……」


「後悔しとるなら、取り返しがつくうちに動いた方がええ。お前さんはわしとは違って真面目でいい男なんじゃから」


「……あの」


「女のことじゃ……えぇいまったく、分からんのか……」


 シバヤマさんは白髪頭をぼりぼりと掻いてため息を吐いた。


「落ち込んどるんか知らんが、ぶり大根の味がいつもと違っておったといっておるんじゃ。次にわしが来るまでには元の味に戻しといてくれよ」


「……は、はい……ありがとうございます」


 頭を下げるご主人を背に、またのぉといってシバヤマさんは店を出る。


“ふん、素直になればいいものを。ひでぇ照れ隠しだな、くそジジイだよまったく。だから奥さんにも逃げられるんだ。”


 なぜか先輩はシバヤマさんにすごい暴言を吐いていた。しかし表情は険しいものではなく、和やかで、すこし笑っている風にもみえる。やはり変態なのか。


 それにしてもぶり大根の味が違うのを見抜くなんて、僕が思っていたよりもずっとぶり大根が好きらしい。

 僕はすんすんと鼻をならす。香りではいつもと違いがわからないのだが、あの老人には恐れ入った、同じぶり大根愛好家としてシバヤマさんをリスペクトしたい。


 まずは食べ方から改めないとな、と僕は考えを巡らせた。ちびちび食べるのもまた一興なのかもしれない。



         □□□□□□       



 十時を過ぎた頃、店内には客が二人だけ。サラリーマンのイチカワさんとその後輩マツイさんだ。この二人もまた常連さん、僕が招こうが招きまいが顔を出してくれる人たちである。僕は僕自身に自分の存在価値を問い始めていた。


 実をいうと僕が「六助」に来て以来、一見さんを招き入れたためしがない。人を招くことだけが取り柄の僕だけど、それすらままならないのであれば僕は存在する価値がないのではないか。

 そんな僕の心情を察したのか、先輩が僕に声を掛けてくる。


“おい、あ~ちゃん。”


“はい、すいません。”


“なんでいきなり謝るんだよ、しみったれてんじゃねー。”


“でも……僕、お客を一人も招けないし、ご主人に恩返しもできないし、この仕事向いてないんじゃないでしょうか。”


“なにが恩返しだ、お前の頭はジブリでいっぱい夢いっぱいか。俺らに向き不向きもねーだろ、むしろこれしか仕事はねーんだ。これしかねーならやるしかねーだろ。”


 前半は謎過ぎる発言もあったが、先輩のいう通りであった。僕らは野良やペットとは違うのだ。


“それによぉ、仕事がうまくいかねーのはなにもお前だけのことじゃねぇ。みてみろこいつら、相当ストレスたまってやがる、人間と比べりゃ俺らは気楽なもんだよ。”


 先輩が顎で指したのはへべれけに酔っぱらっているイチカワさんとマツイさん。相変わらず会社の鬱憤は溜まっているらしく、ご主人は長々と愚痴ぐちを訊かされていた。


「部長はなんであーも人使いが荒いんだぁ、次から次に仕事を押し付けやがって。そんな量を一日でできるわけねーだろ!」


「そうだそうだ! ほんとっすよねー、自分なんて納期内に仕事終わらせたのに、仕事が遅いって怒られたんすよ? なんのための納期なんだって話っすよ」


「わかる。わかるぞマツイ、あのくそ部長は俺らが影分身でもできると思ってんじゃねーか?」


ワハハハハハハハハハ!!


 酷い有り様である。ご主人も愛想笑いで付き合ってはいるが、あのポジションは相当辛い場所だ。彼も苦労人である。


“完全にお酒がストレス発散の捌け口になってますね。”


“まあ、そうでもしねーとやってられねーんだろうよ。それにな、他人の悪口をいいながら呑む酒は、どんなに不味い安酒だろうと美酒に変わる。悪口は最高の肴って名言訊いたことねーか?”


 グズみたいな名言である。


“知らないですよそんなの、誰の言葉なんですか?”


“俺がいま作った。”


“…………。”


 知ってるわけがないじゃないか、グズみたいな思考回路をしている。僕ってこんな先輩に憧れを抱いていたのか?

 僕は目を細め、すこし不満気に訊いた。


“結局先輩はなにがいいたいんですか?”


“つまりだな、もっと気楽に仕事してみろってことだ。俺らには理不尽に怒ってくるような上司もいねぇ、一日のノルマなんてものもありはしねぇ。お前は肩に力が入りすぎなんだ、そんなんじゃ寄りつく客も寄りつかなくなっちまう。強引に呼び込み掛けられても客はいい気しねーだろ?”


“な、なるほど。”


 確かにそれは一理あった。僕は気持ちばかりが先走りすぎていて、招くことに必死になっていた。招いてばかりでは……ん? ……でも、僕って招くこと以外なにができるんだ?


“えーと、僕はなにをすれば?”


“わからねーのかよ。いいか? 俺らの仕事なんざ釣りみたいなもんだ、ある程度の知識とコツさえ掴めば誰にでもできる。わかるだろ?”


“いや、わからないです。”


 だって釣りしたことないもん。猫だし。先輩も猫だよね?


“しかたねーな、ちょっとみてな。”


 いうと先輩は招き始めた。ゆっくりとイチカワさんとマツイさんめがけて招きの念を送っている。

 抱えた大判は『商売繁盛』そのご利益が淡い紫色の光をはなち、微粒子の粒となって可視化する。その光の粒は流れるようにして先輩の右手へとゆっくりと集まってゆく。

 右手へと集まりだしたご利益の力は、先輩の右手を通してイチカワさんらに影響を及ぼした。


「ゆーふけくん、きょおーは呑うぞぉ。次は日本酒にひよう、たまには獺祭らんてどーだい? ダッサイ俺にはピッタリだろ?」


ワハハハハハハハハ!!


 酷い。


「刺身の三点盛りなんかと合わへて、へへっ、さいこーらねーかぁ」


“わーすごい、追加注文だ。”


“いいねぇ、旭酒造の純米酒大吟醸『獺祭』か。辛口ばっかり呑んでたら、獺祭のフルーティーな甘さに度肝を抜かれる。呑みやすさには定評のある逸品だぜ。”


 突然の追加注文に驚いた僕は招き姿の凛々しい先輩をみる。彼はどこか説明的なセリフとともに、ニヤリと笑って舌舐めずりをしている。


「イチカワさんほどほどにしないと」


“旦那ぁ、もう一杯くらいいーじゃねーか。”


 先輩の勢いは止まらない、さらに招いて金運を呼ぶ。


「らいじょーぶっ! 明日は休みだっ、呑んでなんぼだ!」


「イチカワ先輩っ! 自分もつきあいあすよぉ。自分は揚げ出し豆腐とビールを追加でおなしゃす」


“いいねぇ、そうこなくっちゃ!”


 その光景はまさに圧巻だった。イチカワさんたちがまるで先輩の操り人形にでもなったかのように、次々と注文を始める。


 あげくには、おもむろに財布を取り出したイチカワさんが千円札を抜き取って、先輩の体内に入れていた。


“いつも悪いね、まいどありぃ!”


 店内は先輩の独壇場と化している。

 先輩はこうやっていろんな客を引っかけては金運を招いているのだそうだ。特にイチカワさんとは相性がいいのだとか。創業以来、こうして体内に貯まりに貯まった金運は三十万円を越えるというから驚きである。

 彼の懐の中に三十万もの大金があることをご主人は知らないのだが、先輩はやっぱり凄いお方であると再認識するには十分な出来事だった。


“凄すぎます先輩、僕にはとても真似できません。”


“ったりめーだ、経験が違う。わははっ。……だがなぁ、一人二人招くぐらいであればお前にもできるはずだ。”


“僕にもっ……本当ですか!?”


“俺がアドバイスをするなんて、そうそうねーことなんだ、心して訊け。”


“はいっ!”


“まずはお前のご利益『千客万来』を左手に溜めて、客のいるだいたいの位置を把握しろ。そして客との距離に合わせて招く手の高さを変えるんだ。遠くにいる客には高くで招き、近くにいる客には近くで招く。簡単だろ?”


“なるほど、勉強になります。”


“コツについては、そうだな……言葉では説明しにくい。とりあえず一人招いて、自分でコツを掴んでみろ。”


“はいっ!”


 僕は先輩からのありがたーいアドバイスを胸に仕事に戻る。その頃にはイチカワさんとマツイさんはお会計を済ませているところだった。

 二人が帰ってしまうと店には閑古鳥がおりたって、先程までの喧騒が嘘のようである。しょうもない親父ギャグも今となってはすこしだけ恋しい。


 ご主人がイチカワさんらの使った食器を片付けるガチャガチャとした音が、厭に耳に残った。どこか悲しそうなご主人の表情、あんな表情はさせたくない。すぐにお客を招いてご主人を笑顔にしなければ。

 ……おっと危ない。力まず焦らず、肩の力を抜いて、まずはご利益を僕の左手に集中させねばいけないのだった。



           □□□□□□□




 時計の針が十二時を回った頃、忌まわしき閑古鳥がいまなお居酒屋「六助」に鎮座して、シーンと耳鳴りのように鳴いていた。


 先輩のアドバイス通りに招き始め、何度かお客の手応えは感じているのだが、店内まで招ききることができない。

 先輩曰く、僕の合わせが下手でお客が乗らないのだそうだ。ちょっとなにいってるのかわからないです。ご存じの方は教えていただきたい。

 しかし十二時を回ってからは、お客の反応すらめっきり無くなってしまう。


“うーん、全然お客の反応がなくなってきたなぁ。”


“もう日付も変わったしな、今から呑みに来る奴も少ないだろうよ。”


 時間も時間である。お客も帰宅する時間なのだろうと先輩も難色を示した。

 それでも「六助」の営業時間はあと二時間ほどあるのだ、諦めてなんていられない。


“もう少し近くのお客を招いてみようかーーガラガラガラーーぎゃあぁ!!”


「おい~、ばんわ~」


 招いてもいないのにお客が来たものだから、僕は思わず悲鳴をあげてしまった。


“うるせぇなぁ、いきなり叫ぶなよ。”


“すいません。招かざる客がきたもので。”


“なんで敵意剥き出しなんだよ。日本語勉強して出直してこい。”


“僕、この人苦手なんですよ。”


“敵意あったんかい、いい間違いじゃねーのか。姉さんだろ、まあお前の気持ちもわからんではないが。”


 こちらのカナコさんも例にたがわず常連組である。


「カナコさん、いらっしゃい」


「ビールとシシャモと焼おにぎりね~」


「かしこまりました」


 カナコさんは出入口に一番近いカウンター席に座った。いつもこの席にしか座らない。この一週間で四回目のご入店であるから、ぼくもこの人のことはそれなりに知っている。常連中の常連である、先輩が姉さんと呼ぶほどだ。僕は嫌いである。理由としては単純明快、香水がくさい。


 とはいっても立派なお客である。追い返すわけにもいかない。ご主人は冷蔵庫から瓶ビールを出し、グラスとともにカナコさんに渡す。注ついでよ~というカナコさんにご主人は笑って応える。


 とくとくとく、ビールを注そそぐ音が耳に心地いい。

 僕が招いたお客でないのが残念なのだが、いないよりはいた方がいい。さらば閑古鳥、二度と来るな。


「グラスもう一個ちょ~だい」


「え?」


「ゆーすけくんもたまには付き合ってよ~」


「はぁ、じゃあ一杯だけ」


 ご主人のグラスにもビールが注がれると、二人はコチンッとグラスを鳴らした。


「カンパ~イ!」


「頂きます」


 プハーっと一気にグラスを空にしたカナコさんは、お通しの桜えびのお刺身をパクパクと口に運びながら「シシャモまだー?」と注文の催促をする。自分からご主人にビールを呑ませたくせして、自分勝手な女である。料理の味をもっと楽しむことができないのか?


 だから三十歳を目前にして独身なんだと僕は思った。これで仕事がウエディングプランナーだというのだからもう目が当てられない。他人のプランばかりたててないで自分のプランをそろそろ立てないと、孤独死一直線だぞ。まさに孤独死をみずから望む猫の生きざまのようである。


「ところでさ~、ゆーすけくん彼女さんと別れたんだって?」


「え、どこでそれを?」


「ふふふ~、独身アラサーの情報収集能力をなめるな~」


 僕は震えた。コワイ。


“姉さん、そこを突っついてくるのか……下手に荒らしてくれるなよ。”


 先輩は小難しい表情をカナコさんに向けた。変態なのかな?


「敵わないですねカナコさんには、僕なんかではカナコさんの相手は絶対に務まらないですよ」


「予防線張るの早いわっ! しかも()て、完全拒否っ!?」


 突っ込みのキレが鋭い、さすがは独身アラサーである。小手先の技は一級品だ。その勢いでそこら辺の男を取っ捕まえればいいのに、まだみぬ生け贄にご冥福を。


「違う違う」カナコさんはふるふると手を振った。「なんで別れちゃったのか訊こうと思っただけだよ~」


「理由……ですか」


「うんうん、私くらいになるとね~、人の失恋話しが一番のつまみになるんだよ~!」


 だから結婚できないんだよっ! と突っ込んでやりたい。こんな女メスに絡まれて彼も苦労人である。


「理由といわれましても……」


「あるでしょ~理由くらい」


「それは……まあ」


 ご主人がいい渋っているときにまた来客が……あれ? 僕招いてないよ?


「ゆうすけさん今日もいいッスか?」


「おお、ヨシダくん。もちろんいいよ」


 入って来たのはヨシダくん、いわずもがなの常連である。


「おい~ヨシダっち、漫画書いてる~?」


「げっカナコさんっ!」


「げってなんだ、げって。女の子に対して失礼だぞ~」


「………………女の?」


「なんだ~その間とクエッションマークは~」


 どうやらヨシダくんもカナコさんは苦手なようだ。やっぱりそうだよね、くさいよね。たぶんカナコさんは、あのにおいで色んなところにマーキングしてるのだと思うんだ。


「ま~ここ座りなよ~」カナコさんは隣の椅子をばんばん叩く。


“座っちゃだめだヨシダくん、マーキングされるぞ!”


“なにいってんだよお前。”


 どこまでも冷静な先輩、いや僕はヨシダくんのためを思ってですね。とかいっていると当のヨシダくんも、いやでもー、と渋っていた。


“そうだ座っちゃだめだぞ、無理やりマーキングされて所有物にされかねない。”


 しかしカナコさんの、奢ってあげるからの一言ですぐに隣の椅子に座った。


「現金な奴め~」


 こればかりは僕もカナコさんに同意である。

 座ってしまえばさっそく注文、ヨシダくんは唐揚げ定食を頼む。


「六助」は居酒屋なので本来定食は無いのだが、まだ売れていない新人漫画家であるヨシダくんの頼みで、ご主人が格安でヨシダくんにだけ提供しているのである。まったく彼も苦労人である。

 ご主人が唐揚げを揚げている間、カナコさんはヨシダくんに鬼のように絡んでいた。しかしもう慣れっこなのか、それをのらりくらりと受け流すヨシダくん。キミ凄いな。


 それにしても新しいお客はまったく来ない、僕もしっかり招いてはいるのだがうまくいかない。さっきから店のすぐ前に一人お客がいるのだが、その人さえも招けない始末である。


“先輩、どうしましょう。僕にはどうやらセンスの欠片もないようです。このままではご主人が元気になってくれません。”


“ん? ……あっ、そんなことになってたんだったな、お前の中で。”


“へ? どういうことですか?”


“まぁ、俺も旦那が本調子じゃねーと落ち着かねぇ。お前が本気で元気にしたいと思うなら、死ぬ気で店前に突っ立ってる客くらい引き入れてみろよ。あとは姉さんの出方しだいだ。”


“は、はあ。”


 ちょっとなにいってるのかわからないのだか、僕はとりあえず招いてみる。変態さんではあるが先輩のいうことはいつも正しい。今は信じるしかない。


 気をとり直して招いていると、すごくいいにおいが漂ってきた。透きとおった黄金色の油から、ご主人が掬い上げたのは、美しいきつね色をした唐揚げである。カラッとアゲたからカラアゲ、アホみたいなネーミングだが、発明した人は天才だ。


 山盛りのキャベツの千切りに、唐揚げ五つの大ボリューム。それにレモンを搾れば口当たりもサッパリ、もちろんそのまま食べても美味しい。内包された鳥の肉汁が口一杯に広がって旨味の奔流の直撃を喰らう。定食ということでご飯と味噌汁ももちろんついているのだ。あぁ、食べたい! 猫舌なんていってられない!


「いただきます!」


 いうや唐揚げにかぶりつくヨシダくん。不思議と美味しいものを食べると笑顔になってしまうのは人間の本能らしい。僕ぐらいになるとにおいだけで頬がゆるんでじゅるり。


「そうだそうだ。ゆーすけくんりゆう、理由教えてよ~」


 ビールのおかわりを手酌で注いでいたカナコさんは、思い出したかのようにご主人に話をふる。


「理由? なんのですか?」


「ヨシダっち知らないの~? ゆーすけくん彼女さんと別れれたんだって。で、その理由を聞いてたとこなのよ~」


 ヨシダくんはニヒヒと笑うカナコさんを、交尾中にも関わらずオスを殺そうとするというメスカマキリをみるような目でみた。


「だから結婚できないんスよ」


「なんだと~っ、童貞のくせして~っ!」


 僕は心からヨシダくんに拍手喝采を送った。いいぞヨシダくんもっといってやれ。



         □□□□□□□



「まあ……」ご主人は舌で唇を湿らせた。「簡単にいえば僕が一方的に悪いですよ」


 二人はおとなしくご主人の言葉に耳を傾ける。


「彼女とはもう付き合ってから八年ほど経っていたんですけど、ずっと待っていてくれたのに僕がプロポーズできなくて。それで先週彼女から、これ以上待てないから別れて欲しい、といわれました」


「それで別れちゃったの?」


「……はい」


「もしかして彼女さんのこと、そこまで好きじゃなかったとかッスか?」


「いやいや、そんなことない。大好きだったさ。でもヨシダくんも考えてみてくれよ。彼女だってもう二十八歳だ、これ以上待ってくれなんていえるわけないだろ。結婚の決意が固まらない僕が悪いんだよ」


「それでなんで別れるになるのよ~、そこで結婚してくれっていえばよかったじゃない」


「そうッスよね、なんでプロポーズしないんスか?」


 ご主人たちはなにか小難しい話を始めだした。猫の僕にはよくわからない人間関係という奴らしい。


“ったく、人間ってのもめんどくせー生き物だよな。なにをするにも後先を考えなきゃならねぇ、こういう場面に遭遇すると俺は心底猫として産まれてきて良かったと思うよ。自由気儘にのんびりと、これが猫の本懐ってやつだ。”


 先輩はなんらかを理解しているらしい。さすがだ。


“哲学の話ですか。僕には難しいです。”


“恋愛の話だろ? お前がものを知らなすぎるだけだ。”


 怒られた。確かに僕は無知なところがある、もっと勉強しなくては。


“人間ももっと俺らみたいに単純な恋愛をすりゃあいいんだよ。見惚れた女のかわいいケツを、俺たち男が追っかけ回す。なにも難しいことはない簡単なことだ。しかしそれができない、生物としてもっとも進化した人間の、進化しすぎたゆえの不便さだよな。”


 僕もかわいいお尻を追っかけまわすのは大好きだ。しかし生物だとか、進化だとか僕には想像すらできないようなこともいっている。

 やはり哲学の話ではないか? 哲学とはなんぞやと訊かれても、まったく答えられないのだけれど。これ以上頭を使うと知恵熱が出てしまいそうなので、僕は仕事に戻ることとする。わけのわからないことを考えている時間があれば、一人でもお客を招きたい。


「僕だって何度もプロポーズしようと思いましたよ。でも僕にはこの店しかない……売り上げもすくなくて、繁盛しているとはとてもいえないこの店しかないんです」


 ご主人はすこし語気を強める。怒っているのだろうか、売り上げがすくないのも繁盛していないのもすべてお客を招けていない僕のせいだ。

 元気がないのはわかっていたが、そんなに怒っていたとは知らなかった。本当に申し訳ない。


 僕は招いた、客を招いた、それしか能がないのだから必死に左手を招く。


「いいじゃないこの店だけでも~、とても素敵な店だと思うけどな~。お酒も料理も美味しいし」


「そうッスよ、ゆうすけさんはまだ若いのに立派だと思うッス」


「ありがとうございます。でも現実的には貯金もほとんどできないような生活をしているんです。僕だけなら……僕は好きでやっていることだからいいんです。だけど……彼女は、彼女には幸せになって貰いたい、今の僕じゃ彼女を幸せにできない」


 ご主人の表情はみるみる悲しいものとなってしまう。僕がお客を呼ばないと、彼は元気になれないのだ。


“頼む、来てくれ、お願いします。”


 さっきからずっと招いている店の前のお客は、入りそうでいて一向に入らない。だからといって立ち去るわけでもなく、入ろうか入るまいかずっと心が揺れているようだった。

 悩む必要なんてないんだよ、入って下さいお客さん。もっと集中しなくては。ご利益に全身全霊の意識を向けて、その力を僕の左手に宿してゆく。


「なにそれっ!」カナコさんはバンッと両手で机を叩く、食器がガチャンと音をたて、グラスに残ったビールが揺れた。「ゆーすけくん、彼女さんの気持ち考えたことあんの? ほんとに彼女さんのこと想ってそんなこといってんの?」


「……カ、カナコさん?」


「ほんとは彼女さんのこと好きじゃなかったんでしょ?」


「好きでしたよ、本当です」


「ほんとに?」


「はい、本当ですよ。今だってずっと好きなんですよ」


「カ、カナコさん落ち着いて」ご主人に掴つかみかかっていきそうなカナコさんをヨシダくんが止めに入る。


「じゃあなんでそんなことになるわけェ? お互いずっと好きなのに別れちゃうとかさ~」


「え……お互い?」


「客が来ない店だから? 貯金もできない生活だから? 貧乏だったらなんだってのよっ! 相手を好きだって気持ちが一番大事なんじゃないの!? 挙げ句に僕は彼女を幸せにできないだァ? 彼女さんの幸せをお前が勝手に決めてんじゃねーよこのクソ真面目っ! あんなに可愛い彼女さん泣かせてんじゃねーっ!!」


 僕は無我の境地に達していた。周囲の音もシャットアウトされ、ご利益の力の源流が熱くなってゆくのを感じた。もしかするとこれがゾーンというものなのかもしれない。


“来てくれー!! お客さーん!!!”


 僕の大声に呼応するかのように『千客万来』の大判は淡く暖かい光をはなつ。それは毎朝磨りガラス越しにみる太陽の光に似ていて、僕は安らぎさえ覚えた。

 その無数の微粒子が僕の全身を覆い尽くしながら上昇し、僕の左手、このひと招きのために結集する。


 淡く輝く左手は、虚空に美しい弧を描き、たった一人のお客を招くーー。


「…………っ!!」


 ーーご主人は今、何を想うのか。




 僕がやっと招き入れたそのお客は、なぜかボロボロと涙を流し、泣いていた。




「……ゆーすけェ…………バカァ!」


「マヤっ!」


“あっ! 行かないでお客さん!”


 集中が途切れ、周囲のさまざまな情報が僕の五感を通して伝わってくる。やっとの想いで招いたお客は、ご主人に罵声を浴びせて走り去ってしまう。まったく失礼な客である。


 そんな客は初めてなわけで、さすがのご主人も茫然自失としている。ただその背中を見送ることしかできない。


「ゆーすけくん何やってるの!?」


「え」


「え、じゃない。早く追いかけなさいっ!」


「早く行って下さいゆうすけさんっ! 俺、ゆうすけさんに憧れてんスから、カッコいいとこ見せてくださいよ!」


「いや、でも、店が」


「どーでもいいでしょそんなこと! だからクソ真面目だっていってんのよ。私たちが残っといてあげるから、早く彼女さん連れて戻ってきなさいっ!」


「……っ! ……すいません、ちょっと俺行ってきますっ!」


 ご主人は大慌てで店を飛び出した。あの女のお客を追いかけるのだろうか、見上げた商売根性である。見習わねば。


 それとも、先輩のいう恋愛というやつだろうか。

 だとすれば、ご主人は僕らと同じ方法をとるようだ。


 先輩もいっていたじゃないか。恋愛なんて、女のケツを男が追っかけ回していればうまくいくものなのだ。


“先輩……僕、お客を招くことができました……よね?”


“ああ、お前にしては上出来だろーよ。”


 見上げた僕の左手にはすでに光はなく、いつもの僕の手に戻っている。視界の端でキラキラと一瞬輝いたのは、霧散した粒子の残りかすだろうか? このかすかに残る太陽のような残り香も、今となっては気のせいだとさえ思う。


“でも……お客もご主人も出ていっちゃいました。”


“いいじゃねーか、姉さんたちがお膳立てはしてくれたんだ。旦那もこんなチャンスを棒に振るようなバカヤローじゃねーだろ。”


“これが恋愛ってやつなんですか? 難しいです。”


“お前もいずれはするんだろ? 恋愛ってやつをよ。”


“そうなんですかね? よくわからないです。”


“よし、いざというときのために俺のマル秘テクを教えといてやる。いい女を見極める技だ。”


“はあ。”


“女を見極めるためには……肛門を嗅ぎわけろ。”


“あ、もういいです。”


 くだらない話を訊くよりも、今は初めて招けたお客の感覚を噛み締めていたかった。


“バカヤロー訊いとけ、損はさせねーよ。”


 どうやら訊かないとダメらしい。


“いいか? 臭いやつはもちろん論外なんだが、いいにおいがする奴もやめておけ。手入れのしすぎで口がくさい。女の肛門ってのはなぁ、ちょっと臭いくらいがちょうどいいんだ。覚えておけよ。”


 変態……間違えた。先輩は最後までいいきると、開け放たれた出入口へと目を向けた。駆け出していったご主人のことを想っているのだろうか? しょうもない話をしたあとで、よくあんなに清々しい顔ができるものである。


 でもまあ今はどうでもいいか。小さなため息を一つ吐くと、僕も先輩に倣ってそちらに視線を向ける。店でご主人の帰りを待つ、これも僕らの仕事の一つだ。


 店内では残されたカナコさんとヨシダくんが、互いにビールを注ぎあって呑み直しているところだった。


「カナコさんも良いところあるんスね」


「なんだと~ヨシダっち、今頃かよ~」


「見直したッスよ。カナコさん、人の恋愛を破滅させることを生業にしている人だと思ってたッスから」


「生業て、おいおい~いい過ぎだぜボーイ。むしろ成立させるウエディングプランナーだから、これが本職みたいなものなの。減らず口ばかりたたいていると童貞奪っちゃうぞ!」


「いやいや、なんでさっきから俺のこと童貞だと決めつけてるんスか!?」


「おいおい~もしかして素人童貞は童貞じゃないとでも思ってんの~?」


「最低だこの人、見直したとかいって損した」


「どうせゆーすけくんたちも今日はヤるんだろ~、私たちもヤっちゃお~ぜ~!」


「初めてが三十オーバーだなんて死んでもやだっ!」


「あ~童貞って認め……って誰が三十オーバーだクソガキっ、私はまだ二十九だっ! って泣いてんじゃねーーっ!! 泣きたいのはこっちだよー!!」


カナコさんの叫びは、春の美しい満天の星空に向かってどこまでも響いてゆくのだった。




         □□□□□□□




 僕が暮らしているのは居酒屋「六助」


 小さな町の小さな居酒屋だけどここでの生活は悪くない。


 営業時間は夕方六時から深夜二時、個性豊かな客も多いけれど、真面目なご主人の作る料理の味はこの僕が保証する。


 六助と書かれた提灯を目印に、藍色の暖簾をひとたびくぐれば、二匹の招き猫とご主人が元気に笑顔で出迎える。


 そうだそうだ、最近人間のメスが一人増えたのを忘れてた。



 僕は三毛猫招き猫、この手でお客を招く猫。


 今夜はあなたを招きたい。



第24回電撃大賞一次審査落ちの作品です。

アドバイスなどあればぜひ教えてください!

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