1 眠る狼
フィンランドの常備軍はごく少数で、戦時ともなればそのほとんどを予備役でまかなうことになる。
新聞を広げた壮年の男はじっと瞼を伏せたままで思案に暮れた。
ひどい冬になりそうだ。
新聞に掲載されるのは、フィンランド共和国を含めた不安定なヨーロッパ情勢についてばかりで、それらが彼の心を傾ける子供たちにも影響を与えることを知っていた。
存外、子供というものは大人たちが考えるよりもずっと敏感にできているものだ。
夏には日常動員令が政府首脳部から発令され、密かに迫り来る国家の危機にいつでも対応できるように準備を整えつつある。もっとも、準備をしているからと言って、決してフィンランド国民たちが戦争を望んでいるわけでもないことを、男は知っている。
独立戦争では、ひどい戦いがあった。
それからフィンランド内戦があって、ようやく訪れた平和だとも思ったというのに。現実とは残酷だ。
苛立つように新聞の端を指先で叩きながら、その紙面を追いかけていると良い香りがして紅茶の入ったカップが机の端におかれる。
「そんなに苛立っても事態が改善されるわけでもありませんでしょう」
あなたは文部省の官僚で、政治家ではないわ。
官僚と言えば聞こえはいい。
現実は一介の小学校の校長だ。
「苛立っているわけではない」
妻の言葉に片目を細めた男に、彼女はクスクスとほほえんでからそっとその肩に触れる。
「わかっているわ」
ひどい冬がくるのかもしれない。
フィンランドに前代未聞の吹雪が吹き荒れるのかも知れない。
それでも、彼女は男の妻だったからこそそれを覚悟していた。
「大丈夫よ、あなたがこの国にいるのだから」
「買いかぶりだよ」
彼女と出会い、共に生活するようになってどれほどたったのか。
自分は全く出来の良い父親でもなければ、出来の良い夫でもなかったかもしれない。それでも、彼女はほほえみを浮かべて彼を送り出した。
北の大地に冬が訪れる。
「何事もなければいいんだがな」
自分の心配が杞憂で済めばいい。そんなことを思いながら垂れ目に丸顔の印象的な小学校の校長は妻のさしだしたカップに口をつけた。
決して豊かとは言えないが愛すべき森と湖にいだかれた祖国。
*
それからしばらくして一九三九年の十一月末、突然戦争ははじまった。
話せば長い……――。
とにかく、そうして戦争ははじまったのである。
電話のベルが鳴る。
音が鳴り出すと同時に電話の受話器を上げたヒャルマー・シーラスヴォは、電話の向こうで名乗った相手に眉をひそめた。
「これは、……”元帥”」
どうも、と短く応じながらシーラスヴォはちらりと壁に掛けられたカレンダーに視線を放つ。この年の冬は寒さがよりいっそう厳しいようで、すでにフィンランドの北部では雪も降り積もりつつあった。
フィンランド国防軍の総司令官であるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥は、かつてロシア将校として教育を受け、多くの戦争に従軍した歴戦の司令官だ。
もちろんシーラスヴォはざっくりと三十歳ほど年上にあたる老将のことなど詳しく知りはしない。
ただひとつ、シーラスヴォが確信できるのはマンネルヘイムが尊敬すべき人物であるということだけだった。
「……――承知いたしました」
明日には出頭いたします。
そう付け加えたヒャルマー・シーラスヴォに、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは「今すぐに」ミッケリにある国防軍総司令部に顔を出してほしいと言うのだ。
「今ですか?」
余りの性急さにシーラスヴォが眉間を寄せると、丁度校長室を訪れた教員のひとりに不審げな眼差しを向けられた。
手振りだけで教員の退室を促したシーラスヴォは、切迫しきった新聞記事の内容を思い出しながら無言で頷いた。
「今からミッケリに向かうとなりますと、夕方になるかと思われますが」
言葉を濁すシーラスヴォに、マンネルヘイムはそれでも良いと電話口で告げると慌ただしく電話を切った。
「マンネルヘイム元帥自ら陣頭指揮を執っているとなれば、わたし如き若造が年寄りだなどと言ってはいられんか」
困ったように苦笑いを浮かべたシーラスヴォは、教頭にミッケリから召喚命令を受けた旨を伝えると一旦自宅へと引き返して、退役した当時の軍服を身につけた。
それから汽車に乗ってミッケリにある国防軍総司令部に向かうのだが、おそらくマンネルヘイムが彼を呼び出す理由となればそれほど多くはないはずだ。
東の大国――ソビエト連邦と比較して、フィンランド共和国の軍は余りにも貧弱だ。そうなれば当然常備軍は少数で限られる。戦時に期待できるのは予備役の多くの将校たちだった。
ヒャルマー・シーラスヴォもそうした退役軍人のひとりである。
「”今すぐに”スオムッサルミへと向かって赤軍を阻止してもらいたい」
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの執務室を訪れたシーラスヴォは開口一番そう告げられて軽く面食らった。
「……しかし、元帥閣下。どこにそんな戦力があるというのですか」
フィンランドの軍事力などたかが知れている。そんなことは誰に言われなくてもシーラスヴォにはわかっていた。だから、壮年の男は国防軍総司令官に真剣な面持ちで問いかけた。
もちろん死ぬことが恐ろしいわけではない。
それでも、無謀と勇気は違うのだ。
シーラスヴォは子供たちに学舎でそう教えてきた。
「もちろん、ソビエト赤軍に匹敵するような戦力は現在のフィンランドには”ない”」
鋭い刃物のような言葉で切り替えされて、シーラスヴォはますます困惑する。いったいマンネルヘイムはなにを考えているのだろう。
「でしたら、どうなさるおつもりですか」
国防軍総司令官のマンネルヘイムも厳しい面持ちだが、問い返すほうももちろん真剣だ。
彼らの前に差し迫っているのは紛れもない国家の存亡の危機。このままソビエト連邦の侵略を捨て置いてはいけない。おそらく、バルト三国の小国のようにあっという間にソビエト連邦の支配圏の下に置かれてしまうことになるだろう。
自治権を失った小国の末路など哀れなものだ。
だから戦わなければならないことはわかっている。
しかし手立ては少ないのが現状だ。
「”だから君を呼んだ”のだよ。シーラスヴォ大佐」
「……つまり、わたしに無理難題をふっかけるおつもりで?」
「そうだ」
真正面から言葉を突きつける丸顔の温厚な壮年の紳士に、マンネルヘイムは言い切った。
「現在退却中のスオムッサルミの部隊を指揮して赤軍の進撃を阻止してもらいたい」
「……ふむ」
率直に告げられた内容は余りにも深刻で、シーラスヴォはうなるように息を吐き出してから眉間にしわを刻んだ。
「ソ連軍の進撃はかろうじて我が軍の妨害で何とか凌いでいる状況だがそれも時間の問題だろう」
自分のペースを乱すことなく歯切れの良い口調で言葉を連ねるマンネルヘイムに、ちらとシーラスヴォは穏やかな瞳の中に鋭い光を閃かせてもう一度睫毛をおろした。
つまるところ、自分には選択肢が存在しないと言うことだ。
「――……倍の兵力を一個師団で受け止めよ、と?」
「そうだ」
もしかしたら倍以上かもしれない。
マンネルヘイムがそう続ける。
「しかし、狡猾な戦略家でもある”君なら”、不可能を可能にできると信じている」
なにやら確信に満ちた眼差しで持ち上げられて、ヒャルマー・シーラスヴォは肩をすくめてみせた。
「承知いたしました。さっそくスオムッサルミへと向かいます」
「”期待している”」
軍靴の踵を鳴らしたシーラスヴォは国防軍総司令官に敬礼をしてから、差しだされたファイルを受け取った。
――平和な世界は、そうして彼の目の前から崩れ去ったのである。