アルミ扉と埃の部屋
「別にここの大気が有毒ってわけじゃないよ」
まるでそれが普通の事だとでも言うように、少年は淡々と言葉を吐き出す。ガスマスクに覆われたその顔からは、どうしても表情は窺えない。
薄暗い室内に少しの光を届けている太陽は既に半分地上に隠れてしまっていた。もうじき夜が来るはずだが、気温は昼ごろとまるで変わらずただ温く弱い風が断続的に窓から吹き込むだけで、冷たさの気配はない。
少年は先程からずっと、小さい画用紙に赴くままの絵を描き連ねていた。足元には描き終えた絵が幾枚も散らばり、まるで何かを訴えるかの様に細かく震えている。それらが何を考えているのかは、きっと、少年にも理解できない。
「じゃあなんでそんなのつけているの」
「知らない」
「趣味?」
「ううん」
「恥ずかしがり屋?」
「ううん」
「性癖?」
「ちがうってば」
鉄筋コンクリートでできた室内は遮音性は高いものの妙に薄暗く、無機質で冷たい。右側には開くたびにギリギリと煩わしい音をたてる薄いアルミ扉があり、その真向かいに位置する窓から時折吹き込む風がその硬いドアを細かく揺らしていた。
少年と少女は向かい合うようにして地べたに座り込みながら、無意味な言葉の応酬を続けている。隅にたまった埃を視界の端に捉えながら、少女はまた口を開いた。
「わたし、そろそろあなたの顔を忘れてしまうよ」
「それは覚える必要が無かったってことだよ」
「そもそも見たことすらないかもしれない。よくわからなくなっちゃった」
「それは見る必要が無かったってことだよ」
「この前も同じことを言ってた気がする」
「違うよ、全然違うよ! この前――ていうか、もうかれこれ話すのは五回目になるけど、僕が君に言ったのは芸術がわからないっていうことは、わからなくても良いっていうこと。いきなりキュビスム時代のピカソが描いた絵なんかを見て素晴らしいなんて思える人は極稀だし、そう言う奴は決まって大体美術を愛している自分に酔っているだけさ! ピカソの生い立ちも人生も何も知らないでその絵の持つ意味を理解することなんてまず無理なの! 彼の絵は彼自身を知ることにより始めて理解できるものであって――」
少年は握りしめていた4Bの鉛筆を握りしめながら、少女に講釈を垂れはじめる。彼が膝に乗せていた画用紙が滑り落ち、床に乾いた音を立てた。描きかけの絵が生きることなく死んでいく、描き上げられて呼吸を続ける幾つもの絵画の中、その絵だけが干からびて動かない。アルミ扉が彼の死を嘆くように、一際高く嘶いた。
少女は呆れ返り、聞くことを放棄するように天井を仰いだ。元々喋るのが好きな彼でもあるし少女も話を聞くのが好きな方だが、流石に同じ話を五回ともなるといくらなんでも正直うんざりするものがある。そもそも五回も話されても全くその内容を覚えていない自分自身に対してもある意味脱力感を覚えざるを得ない事に、少女は小さくため息をついた。その吐息に、宙に舞う埃がふわりと不規則に跳ねる。
「だから僕が主張したいのは、人間の体はエロスと美しさ両方を兼ね備えてる唯一の存在ってことさ! 夕陽を見て綺麗だって思っても、いやらしいと思う人なんてまずいないだろう? 逆にそういうやらしい道具を見て綺麗だって思う人もいないだろう? でも人間の体は違う。綺麗だって思う人もいるし、エロいって感じる人もいる。これは宇宙の神秘だよ! 人間の体の秘める無限の芸術的可能性が――」
元の論点があやふやになりかけたところで、突如甲高い電子音が少年の言葉を遮った。途端、彼の動きがピタリと止まる。風が一層強く吹き付け、扉を押し付けた。
少年の身に着けているカーゴパンツのポケットが、細かく振動していた。ガスマスクの少年は乱暴にポケットの中に手を突っ込み、着信を知らせている薄型の携帯電話を引っ張り出す。アクセサリー類は付いていなかった。
「はい、もしもし……うん、そう。そうです。……はい、ありがとうございます……うん、うん。……大丈夫です、気にしないでください。はい、はい……」
ガスマスクで隠された表情は窺い知ることができない。少年の声が空しく鉄筋コンクリートに反響し、震えるアルミ扉に話しかける。
何もすることの無い少女は、窓に視線を投げつけた。睨むようなそれは、少年には決して向けれないものである。
「うん……そうなの? うん、そっか、うん……そうですね。…………うん、でも僕も、貴方と同じことをすると思いますよ。貴方は悪くないですよ」
『貴方はわるくないですよ』。少女は口の中でその言葉をかみ砕く。飲み込みはしなかった。
少女は重い腰を上げ、扉と反対方向へと歩み寄る。窓の外からは外の景色が望めた。夕焼けが終わりつつある町に時折カラスの声が反響して、意味もなく郷愁の念を抱かせる。遠くの方に見える、まるで自分たち人間を見下ろすかの様にして憮然と立ち並ぶ鉄柱が、太陽の光を背に受けていた。
「貴方は悪くないですよ。気にしないで。貴方は悪くないですよ。うん……うん、そう。全部僕のせいです。……うん。うん…………ごめんなさい。ごめん、ごめんなさい。うん、頑張るから。大丈夫、だって僕は……」
何もかもが一日の終わりを迎える中、真下の道路にある街灯だけが就業時間を迎えている。昼間に比べると大分交通量が少なくなった道路を、大型のバスが走り抜けていった。
やがて太陽が沈み、空は紫と濃紺にわかれる。風は夕方より少し強くなったが、相変わらず空気は暖かいままだった。
「うん、はい、うん……ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。うん、その通りです……ごめんなさい。貴方は悪くないです。悪くないです。うん、大丈夫……全部僕のせいです。はい、わかりました。では、もう時間なので……はい。わかりました……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい…………。……うん、わかりました、それじゃあ、ばいばい」
少年が通話を初めて三十分程経った頃。ようやく会話が終わったのか、暗い別れの言葉を最後に少年は言葉を止めた。右手で握りしめていた携帯電話が、彼の手から滑り落ちる。しばらくそのままじっとしていたが、やがて崩れ落ちるようにゆるゆると横たわった。会話の最中ずっと握りしめられていた鉛筆が少年の手から離れて行き、画用紙の元へ歩み寄る。
少女は窓から視線を外し、元の位置に座りこむ。部屋に溜まった埃に抱かれている彼が、彼女にはやけに小さく思えた。二人の間に圧し掛かる沈黙が一秒一秒室内の空気を奪っていく。少し強めの風が吹き、アルミ扉が一際高い声をあげた。
「ゴミ箱があれば」
まるで独り言の様に、少年は呟く。
「ゴミ箱があれば、人はしあわせになれる筈なんだ。ゴミ箱が無ければ、みんなずっといらないゴミを抱え続けなければならない。それはとっても悪いことだよ。だからゴミ箱が必要なんだ。ゴミ箱が……。嫌な事や嫌なものを吐き捨てる場所が、人間には必要なんだ。失敗したらゴミ箱に捨てて。人間はまた新しく何かに挑んでいく。ピカソだってゴッホだってダリだってセザンヌだって、みんないくつも失敗作を生みながらそれぞれ傑作を生み出してきた筈だ。だからゴミ箱さえあれば、一つの目標に向かって努力し続けられて、やがてみんな成功して、みんな幸せになれるはずなんだ」
震える彼の声は枯れた植物の様に卑しくて儚い。もうとっくに生命を終えているはずなのに、いじらしく散るのを待っている矮小な存在。そんな少年の姿に、少女は何かを訴えるかのように目を細めた。
「じゃあなんでその人間がわざわざゴミ箱の役を被ってるの」
不満。軽蔑。疑心。悪意。羞恥。嫉妬。憫然。劣等。社会で生活するにおいて、そんな負の感情と付き合わなくても良い生き方なんて無い。薄い皮膚に張り付けた惚けた笑顔で相手を崇拝し、また自分も崇められる。「すごいですね」「流石ですね」「敵いませんね」「何でもできますね」…………。虫唾が走る相手を醜く奉り、見下しながら尊敬する。考えるだけでも嫌悪に奥歯を噛みしめる程だが、それだけで済むならまだ良い。
何年も同じ場所で生きていれば、自然と下の存在ができる。今度は自分が、その敬意の眼差しを浴びる標的となるのだ。あること無い事を吐かれ、勝手に己と言う存在が歪められた綺麗な人間に作り替えられていく。「あの人はいい人」「人を捨てたりしない」「貴方がいなくなったら困る」「ずっといっしょだよ」「良い人」「いい人」「いいひと」「いい人」「いいひと」「良い人」「いい人」いいひと」「いい人」「いいひと」「良い人」「いい人」いいひと」「いい人」「いいひと」「良い人」「いい人」いいひと」「いい人」「いいひと」「良い人」「いい人」。
本当にそう思ってるかなんて、誰にも聞けないまま笑顔を浮かべて生きていく。
互いに疑心暗鬼になって、でも疑っていることを察され無いように生きていく。
そうするしか、方法は無いのだ。分かっている。どこにも捌け口を見いだせずに、静かに。
「僕は人間なんかじゃない」
ぴしゃりと、少年は言い放った。アルミ扉の鳴き声が止み、生ぬるい空気が肌にまとわりついていく。少女は先程までの思い事を止め、彼を見据えた。
「僕は、人間なんかじゃない」
まるで自分自身に言い聞かせるように、少年はゆっくりと言葉を吐く。
「ただ愚痴を聞くだけの仕事だよ。ただみんなのストレスを発散させるだけの仕事だよ。本人に直接言えない罵詈雑言をいっぱい浴びて……でも、それだけのこと」
「みんなの嫌われ者になる事が、それだけのことなの? みんなが嫌いな人を庇うことが」
「それだけのことだよ。人間の常識なんか僕には通じない。だって僕はゴミ箱だから。他にもいるであろうゴミ箱からしたら、このくらい、まだまだなんだと思うよ」
「どういう意味?」
「僕より優れたゴミ箱なんて沢山いるんだ。だから僕が弱音を吐いたりしたら」
「なんでいちばん不幸な人しか弱音を吐いてはいけないの?」
少女の怒鳴っているわけでは無いのに、やけに大きく響いた声にガスマスクの少年は驚いて動きを止める。レンズ越しに少女を窺ったが、彼女は悲しみも怒りも表さない表情で、ただこちらを見据えているだけだった。
どこの世界にも、虐げられる存在はいる。自分はそれを甘んじて受け入れただけなのだ。生業にしただけなのだ。そう少年は伝えたかったが、唇からは辛うじて震えた息が吐き出されるだけで、言葉ができることはなかった。
「私より不幸な人なんていっぱいいるよ。君より不幸な人なんていっぱいいるよ。今自分と同じ状況に置かれている人なんてそれこそ数えきれないよ。でもだからってなんなの。同じ悩みや嫌なことを抱えている人がいるからって今自分が持っている苦しみとかが消えるわけじゃないよ。苦しいことを苦しいっていってなにが悪いの。助けてほしいときに助けてほしいって言ってなにが悪いの。自分より悩んでいる人がいたとしても、それは何の慰めにもならないよ」
「…………」
「君の言うゴミ箱だって、わたしには意味がわからない。ゴミがあるなら、燃やせばいいじゃん。わざわざゴミ箱に捨てないで燃やしたりそこら辺に捨てたりすればいいじゃん。君がゴミ箱を受け入れなくても平気じゃん」
「……ぼくは」
「そのガスマスクは何のために着けているの?」
少年の動きが一瞬止まる。油絵具の様な泥ついた沈黙の中、彼は動きを再開して、床に散らばった絵を片付け始める。
「大きいゴミ箱、あるだろう」
「うん。お店とかの裏側にあるやつだよね」
全ての絵が回収され、一つの生命として脈を打つ。アルミ扉が、歓喜に声を上げる。
「大きいゴミ箱には、大抵蓋がついてる」
「うん」
「なんでだと思う?」
「臭いをまき散らさないため?」
「正解」
4Bの鉛筆が拾い上げられ、画用紙の間に挟まれる。
「大きいゴミ箱ほど、色々な物を持つことができるんだ。つまり、沢山のゴミを貯めこめられる。ゴミがいっぱいあると、それはそれは酷い臭いになる」
「うん。一つ一つはそんなに臭くなくても、数があればそれが積み重なってすごくなってしまうんだよね」
「だから、沢山のゴミによってみんなが不快感を覚え無いよう、大きいゴミ箱には蓋がついている」
「うん。蓋がついていなかったら、大変だね」
「なんで蓋を付けないんだって、怒るよね。それと蓋があると、それを開けないとどれくらいゴミが溜まってるかわからないよね」
「うん。意外と何も無いかもしれないし、今にも溢れ出しそうかもしれないよね」
淡々と続く言葉の応酬に意味は無い。ただ窓から吹き付ける風がアルミ扉を細かく震わせ、蹂躙する。
少年は少女の目の前に立ち、まっすぐその瞳を見据える。少女も、少年の目を見つめ返す。
「これ以上、世界が綺麗にならないように」
少女は立ち上がり、正面にいる彼と目線を合わせる。そのままゆっくりと、形を確かめるかのように少年のガスマスクを撫でた。
「とてもお似合いな、蓋だね」
空はいよいよ濃紺と黒の深い色に染まり、排気ガスで汚れた星がか細い光を放ち始める。裏通りにあるもう一つの盛り場の明かりが煌々と怪しげに輝きを戻していく一方で、大通りにある店は次々とシャッターを下ろしはじめた。一つの世界が眠りについて、もう一つの世界が目覚めていく。
埃の中に抱かれるようにしてそこに存在する二人は、眠ることも目覚めることもせずに、ただアルミ扉の小さな話し声を聞き続ける。
「……ありがとう」
それがどちらの声なのかは、知らない。
通常生きていない物が生きている様になるだけなのは好きではありません。生きるのなら生きて。死んでいるなら死んで。中途半端に死んでいるのにあたかも生きているかのようにするのはとてもずるいことだと思うのです。
だからアルミ扉を、画用紙を一つの生命として尊敬してみたいというわけです。どーだか。




