カルテ1
一つのカルテに、三つの物語が入っています。
さあ、扉を叩いてみてください。
心のココロ
ミスターAは心療科の医師である。
町外れの閑静な住宅街の一角に、彼の医院はあった。
あるとき、男が一人、彼の元を訪れてこう言った。
「先生。ぼくは最近悩んでいるんです」
「ほう、それは一体どんな悩みなんだね?」
ミスターAは、口ひげを触りながら尋ねた。
「自分の心がよくわからなくなってしまって」
「ほう、自分の心が」
「そうなんです。心というものは、一瞬のうちにころころと変化してしまうものでしょう? ですから、ぼくが本当は自分がどう思っているのか、もしかしたら全然違うことを感じているんじゃないかと、ひやひやしているんです」
ミスターAは足を組みながら、
「たとえば、どんなときにそう感じるんだね? なるべく具体的に話してはくれないか?」
男はうなずくと、ぼそぼそと話しはじめた。
「彼女と一緒にいるときに、頻繁に感じるんです。ぼくが、彼女にプレゼントをしますでしょう? 彼女はとても喜んでくれるんです。でも、本当はぼくのために喜んでいる振りをしているだけかもしれない。すると途端に、ぼくは嬉しいのか、嬉しくないのか、よくわからなくなってしまうんです。それと、夜に長電話をしたりするでしょう? 話している最中はいいんですけれど、話し終わって電話を切ったあと、彼女はぼくと話して本当に楽しんでいてくれたのか、すぐにわからなくなってしまうんです。ぼくはひょっとしたら、迷惑がられているんじゃないかって、そう思うといままで楽しく感じていたのに、あっという間に楽しくなくなってしまうんです」
するとミスターAは訊いた。
「そのことを彼女に話したりはしていないのかね?」
「とんでもない! 話したりしたら、彼女は幻滅するに決まっています。こんな情緒不安定な男と付き合っているなんて知ったら、きっと別れを切り出されてしまうのがオチです。それにぼくも恥ずかしいですよ」
「そうかね、恥ずかしいのかね」
ミスターAは確認するように言った。
「もちろんです」
「そのことについては、よくわからなくなったりしないのかね?」
「……どういうことですか?」
男は首をひねりながら訊き返した。
「つまり、キミは自分の心がよくわからない――そう言っていたね」
「はい」
「でも、その恥ずかしいという気持ちだけは、よくわからなくなったりしないのかね?」
「……そ、それは……」
「心とは、確かにキミの言うとおり、一瞬のうちにころころ変化してしまうものだ。だからこそ、自分の心がよくわからなくなったように感じてしまう人がたくさんいる。キミもその一人だ」
「と、言いますと?」
「つまり、嬉しいのか嬉しくないのかわからない――というのも一種の心の動きなんだ。キミの場合、あまりに早く変化しすぎて、わからなくなっているように思っているだけでね」
「ということは、それも自分の心だと、そういうことですか?」
ミスターAは、力強くうなずいた。
「そう。嬉しいと感じるのも自分の心、そして嬉しくないと感じるのも自分の心。楽しいと思うのも楽しくないと思うのも、すべて自分の心がやっていることなんだ」
「では、どうしたら、自分の心を見失わないようにできますかね?」
男は、気弱そうな声で言った。
するとミスターAは、紅茶を一口含んだあと、
「まずは、自分の心を確認することだね」
「ど、どうやってですか?」
「楽しいと感じたら、これがいまの自分の心――楽しくないと感じても自分の心。つまりそのときどきに感じた心と向き合うことが大切だ」
「……はぁ。そうなんですか。では、それをやってみようと思います」
男はふと立ち上がり、ミスターAに軽く会釈をした。
そして男が、診療室から出ようとしたとき、
「あ、キミ」
ミスターAが男を呼び止めた。
「なんでしょうか?」
「ここで相談してよかったと思う気持ちも、あまりよかったと思わない気持ちも、自分の気持ちには変わりないんだよ」
男は驚いたように目を丸くし、
「あ、なんとなくわかった気がします」
そう言って、男は満足そうに出て行った。
ミスターAは紅茶の匂いをかぎながら、クッキーを一つほお張った。
ばい菌
あるところに、自分以外のすべてをばい菌だと思う男がいた。
その男が、家族に連れられてミスターAの元へやってきた。
男はミスターAの前に座るなり、こう言った。
「先生だかなんだか知らないが、あんたも俺にとっちゃばい菌だ」
するとミスターAは感心したようにうなずき、口ひげをなでた。
「ほう、キミは私のことをばい菌だ、とそう言うのかね」
「あんただけじゃないさ。俺以外のもの全部がばい菌なんだ」
「つまり、キミは自分はばい菌じゃない――そういうことだね?」
すると男は怒ったように立ち上がった。
「あたり前だ! なんで俺があんたらと同じばい菌にならなくちゃならないんだ!」
ミスターAは、その男に、なにげなく言った。
「でも、キミと同じような考え方の人間がこの場に現れたら、キミもばい菌の仲間入りになると思うんだがね」
ミスターAは、こくりと紅茶を飲んだ。
男は糸が切れたように座ると、ぽつりと言葉をこぼした。
「そっか」
物理学者
ミスターAは久しぶりに町の中心街へ赴いた。
旧友と落ち合い、食事をするためだ。この友人は物理学者で、とても理論的な男だった。
「やあ!」
友人はミスターAを見るなり、にこやかにあいさつをした。
「いやいや、久しぶりだね。キミも変わってないな」
「キミこそ、まったく変わってないじゃないか」
ミスターAも友人も上機嫌で、互いの肩を叩きあった。
ワインを飲み、食事に舌鼓を打っていると、自然と話に花が咲いていく。
「最近、助手の間でわしの研究室に幽霊が出ると噂が立ってね」
友人は少し赤い顔をしながら、不満そうに言った。
「ほう、それはまた」
「まったくけしからん。仮にも物理学を専攻している者が、そんな目に見えないもんを信じるとは」
そう言って友人はワインを飲み干した。
「キミは目に見えないものを信じないのかね?」
「そんなこと、あたりまえじゃないか。この世界にはまだまだ解明されていない謎がたくさんあるんだ。宇宙、科学、未発見の方程式……数えただけでも両手が埋まる。それなのに、なんの根拠もないものを信じるとは――まったくもってばかげている」
「ふむ。それもそうだな」
ミスターAは口ひげをなでながら、うなずいた。
「そうだ。ちょっと話を聞いてくれ」
「なんだい?」
友人は急に目を輝かせた。
「わしの研究室から、大発見が生まれるかもしれん」
「それはすごい!」
「ああ! そうだろう! もうそれを考えただけで、胸が躍るような心地になるんだ」
「胸が躍る? それまたどうして」
すると友人が怪訝そう顔をした。
「なにを言ってるんだ。大発見だぞ? すごいことじゃないか」
「ああ、それはわかるんだがね。でもどうして胸が躍る心地になる――と、そう言えるんだい」
ミスターAの言葉に、ますます友人は眉をひそめた。
「キミ! 普通に考えてごらんよ。大発見をして脚光を浴びるような映像を思い浮べただけで、心がわくわくするだろう」
「でも、キミは今しがた、『目に見えないものは信じない』とそう言ったじゃないか。それなのに、どうして心の存在だけは信じることができるんだね?」
「そ、それは……」
「心も目に見えないものだと、私は思うがねえ」
友人はそれからというもの、『目に見えないものは信じない』と言うことはなくなった。
楽しんでいただけましたら、嬉しい限りです。よろしければ、一言どうぞ!