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第九十二話 どこにいても私は私

雪解けの季節が訪れ、マーレン国の山々にもわずかに春の気配が宿り始めた頃。

セレスティア――いや、今や“エリー”として穏やかな日々を送っていた彼女は、相変わらず記憶を取り戻せないまま、それでも静かに生活を営んでいた。


助けられてからというもの、レオンハルトの庇護は手厚く、むしろ過保護と言っても差し支えないほどだった。「そばにいろ」が口癖のようになった彼の気質ゆえに、気がつけば日々の大半を共に過ごしていた。最初は療養の一環だったはずが、次第に執務室や軍施設にも同行するようになり、まるで当然のように彼の隣に座る日常が出来上がっていった。


ある日、何気なく書類の束に目を通していたエリーは、ふと気付いた。


「ねぇ、ハルト。この書き方じゃ金額が分かりづらいわ。ほら、こうやって項目ごとに分けて、個数、単価、合計って欄を作って、ここにサインの欄と、許可・却下・修正ってチェックできるようにして……日付も忘れずに。これで、他部署からの申請も一目で分かると思うの」


その提案は、瞬く間に定型申請書として採用され、軍内部の事務処理が驚くほど円滑になった。


レオンハルトの側近であるジーク=ラドクリフという男は、最初こそ警戒心を隠さずにいたが、エリーの観察眼と実務能力を目の当たりにするうちに次第に認識を改めるようになった。


ある日、経理関連の報告書を読んでいた彼女は、牛肉の出荷数と乳製品の数字に違和感を覚え、ジークに声をかけた。


「ねぇジーク。この申請おかしいと思わない?作物の作付けがうまくいかなかったから補助金を求めるのは分かる。でもその気温なら、牛の餌だって不足してるはずでしょ?……ミルクの出が変わらないのは不自然よ。数字、盛ってるわよね?」


さりげなく見えて、実は核心を突いた言葉だった。

この一件で、ジークの中で“記憶のない少女”から“信頼できる助言者”へと、エリーの存在が大きく変わったのだった。


他にも、武具が無造作に床に置かれているのを見ては、


「これじゃ、剣が泣いてるわ。棚を作って整頓しましょう。ほら、これ、刃こぼれがひどいじゃない。砥石で磨いてあげないと」


と、手ずから研ぎ始める。やがて兵たちも彼女の言葉に耳を傾けるようになり、自然と職場の空気が柔らかく、かつ引き締まったものへと変化していった。


月日が流れるごとに、エリーの存在は王宮のあちこちに浸透していった。料理長からは「晩餐の献立、今日はどんなのがいい?」と尋ねられ、衣装係からは「このドレスの裾、どう仕立て直す?」と相談を受け、ついには第一王子であるフリードリヒからも「政務で悩んでいるのだが、君ならどうする?」と助言を求められるほどに――。


いつしか、彼女は王宮にとって無くてはならない存在となっていた。


その傍らには、いつもレオンハルトがいた。

表向きは口数の少ない軍人だが、エリーにだけは不器用な優しさを惜しまなかった。時には朝食を一緒にとり、時には市街へ散策に連れ出してくれることもあった。彼女にとっては、穏やかで心休まる日々だった。


そんなある日、王宮に一通の使令が届いた。

送り主は、遠く離れたサダール王国。


「……彼女に関する情報を得た。マーレン国に滞在しているという話がある。是非とも本人に会わせて欲しい」


それは、セレスティアを探し続けていた者たちの、ついに届いた想いだった。


レオンハルトは、エリーにその旨を丁寧に伝えた。彼女は少しの沈黙ののち、小さく頷いた。


「……わたしの記憶が、本当にそこにあるのか分からない。でも、会ってみたい……そう思うの。もしかしたら、何か思い出すかもしれない」


返事はすぐに返され、面会は二日後に決定された。


エリーは、その夜静かに眠れぬまま星空を見上げていた。遠くの空にある、見知らぬ“過去”と、ここにある“今”が、ようやく交差しようとしていた。

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