第八話 家族の想いと、婚約白紙の舞台裏
あの日、セレスティアが哀しみを宿した瞳から流れる涙をみせ意識を手放した瞬間のことを、彼女の父カイゼルは決して忘れないだろう。母マリエッタもまた、泣きはらしたような目で小さな娘の手を握りしめ、言葉にならない悔しさを胸に呑み込んでいた。
王都の陽は穏やかでも、サフィール家の屋敷には重く冷たい空気が流れていた。屋敷の執務室では、カイゼルが黙々と筆を走らせていた。宛先は、自領にいる父――サフィール家の当主にして、かつてこの婚約を取り決めた張本人、ロドルフである。
「――あなたが良かれと思って結んだ縁が、あの子の心を傷つけました。どうか、事情を知ってください」
丁寧に、それでも怒りを抑えきれぬ筆致で記されたその手紙が届いた数日後のこと。返事を待つまでもなく、老いた騎士であるロドルフは、自ら馬車を走らせて王都へ駆けつけていた。
「まさか……こんなことになるとはな」
屋敷に到着したロドルフの瞳には、いつもの鋭さではなく、孫娘を思う祖父の悔恨がにじんでいた。
――そして、運命の日。
王都の一角、格式ある会議室に二つの家の人々が顔を揃えた。
一方の席には、サフィール家。父カイゼル、母マリエッタ、祖父ロドルフ。そして、当事者であるセレスティアはあえて席を外されていた。もう一方には、バルデック家の面々――ユリオの父エオリエル、母サリエナル、祖父アラン、そして騒動の張本人であるユリオが並ぶ。
重苦しい沈黙を破ったのは、カイゼルの低く静かな声だった。
「本日はお集まりいただき感謝いたします。まず第一に――我が家の娘セレスティアを深く傷つけた件について、父として、家族全員の総意として、怒りを抑えるのに必死であることをご理解いただきたい」
言葉は穏やかだったが、その一つひとつに凍りつくような怒気が含まれていた。
バルデック家は頭を下げた。母サリエナルは涙ぐみ、祖父アランも何度も頷きながら「まさかユリオがそんなことを……」と繰り返していた。だが、事態をなんとか取り繕おうとしたのは、当の本人――ユリオだった。
「ほんの気の迷いだったんです。セレスティアを傷つけるつもりなんて、これっぽっちも……。あのときは、まだ彼女が女学院に通う前で、関係が冷めていたわけではないけれど、少し……遠く感じてしまって……関係もセレスティアが入学するまでの短い時間と割り切っていたんです。」
未熟さの言い訳。あまりにもセレスティアを軽んじた響きに、マリエッタはそっとハンカチを握りしめた。
そして、カイゼルが言った。
「あなたの“少しの気の迷い”のせいで、あの子は進路を変えた。女学院ではなく、王立学園高等部の特別科を目指すと、自分で選んだ。婚約者の浮気相手がいた女学院には通えないと。もう誰にも傷つけられないために、十三の少女が己の道を切り拓こうとしている。それが、あなたのしたことの“代償”です」
その言葉に、バルデック家の祖父アランは沈黙した。そして、立ち上がり、深く頭を下げた。
「……申し訳ない。本当に申し訳ない。こんなことになるとは……孫同士のご縁を、良きものと信じていた私の思い上がりだった。婚約は……白紙にいたしましょう」
その頬に伝った老いた涙は、場の誰の心にも何かを残した。
こうして、婚約は正式に破棄された。
ユリオには学園から厳しい処分が下された。1か月の謹慎。そして、進級は認められず、同じ学年を再履修することとなった。
だが――セレスティアが他人になってしまったその瞬間から、ユリオの中に奇妙な喪失感が芽生え始めていた。これまでは「祖父同士が決めた関係」という枠でしか捉えていなかった彼女が、突然、自分の世界から離れたとたん――その距離の冷たさに耐えきれなくなっていた。
「どうして、こんな事に。もっと……なぜ大事にしなかったんだろうな」
吐き出したその言葉に、誰が答えることもなかった。
一方、サフィール家でも余波は広がっていた。
長女リディアは、自責に揺れていた。フローレンス――彼女は、リディアと同じクラスにいた。妹の婚約者に手を出しながら、何食わぬ顔で隣に座っていたあの女に、なぜもっと早く気づけなかったのかと。なぜ、妹の異変に対して、あのとき一言も問いただせなかったのかと。
怒りと後悔は、彼女の中で複雑に渦巻いていた。
そして、長兄アレク。騎士団に所属する彼は、ユリオを“未来の弟”として可愛がってきた。そのユリオが、裏でこんな真似をしていたと知ってからというもの、あの日以来口をきいていない。
「……よくも平然と、俺と剣を交えたな」
その言葉は届くことなく、静かに胸の奥で燃え続けていた。
だが、そんな周囲のざわめきをよそに、セレスティアはといえば――
「やっと自由になれた」
朝の光のなか、にこやかに窓を開け放っていた。
未練など、かけらもない。彼女の視線は、もう未来だけを見つめていた。