第八十一話 待たない女
陛下の執務室を辞した後も、レオナルドは先ほどの場面を何度も思い返していた。結果としては想定の範囲内だったはずなのに――彼の胸に深く刺さっていたのは、セレスティアの怒りだった。理不尽さに声を震わせながら、静かに、しかしはっきりと不条理に異を唱えたあの姿。決して激情に任せたものではなく、信念に裏打ちされた「意志」だった。
その怒りの根底にあったのが、他でもない“自分への想い”だと気づいたとき、レオナルドは思わず目を閉じて息を呑んだ。ああ、この人は……自分が想像していた以上に、まっすぐで、強くて、優しくて――なにより、自分を深く愛してくれていたのだと。
そんな彼の視線の先で、セレスティアが少し表情を緩めてふと笑った。
「レオナルド様、わたくしたちの結婚が受け入れられるよう、心を込めてお話すれば……きっと、想いは届きますわ」
安心させようとしてくれているのが分かった。その笑みに、彼はそっと頷いた。
「……ああ、そうだな。セレスと一緒なら、どんな道でも歩ける気がする」
「ふふ、それなら今日の晩餐、ご一緒しませんか?わたくしの勤務が終わり次第、お迎えに上がりますわ」
「サフィール家でご迷惑でなければ、喜んで伺わせていただきます」
「では、後ほど……レオ」
「また後で、セレス」
別れ際、互いの名を短く呼び合う声音には、確かなぬくもりがあった。
後方支援局へと戻ったセレスティアは、事前に遅れることを伝えてはいたものの、入口で出迎えた数名の職員に頭を下げた。
「皆様、お待たせして申し訳ありません。婚約のご報告をしてまいりました。遅れた分、しっかり取り戻しますわ」
そう笑って局長室に向かおうとしたそのとき、背後から遠慮がちな、それでいて少し遠慮の足りない声がかかった。
「セレスティア様……お尋ねしてもよろしいでしょうか」
声の主は、治癒部門に配属されたばかりの新人、ミオナの直属の部下であるラミラだった。
「どうぞ」
セレスティアが足を止めると、ラミラは少し戸惑いながらも言葉を続けた。
「なぜ……エリック様やエリオット様ではなく、レオナルド様をお選びになったのですか?その……ディオラン様からの圧力などがあって、無理に決められたのではないかと、少し……」
空気が、ふっと変わった。
周囲にいた職員たちの間に、微かな緊張が走った。
セレスティアは一瞬黙り込んだあと、にっこりと笑みを浮かべた。
「あなた、ミオナの部下のラミラさんよね。ならば、ひとつあなたに尋ねるわね」
彼女の声は柔らかだったが、内に秘めた芯は明らかだった。
「好意を“匂わせる”だけの人と、きちんと“言葉にして伝える”人。あなたは、どちらに心が傾くかしら?」
「それは……」
「わたくしは、曖昧な想いには何も返せないの。好意なのか、憧れなのか、あるいはただの思い違いなのか。何も言われなければ、分からないわ。ただ黙って隣に立って、こちらが気づいて動くのを待っているだけなら――それは好意でもなんでもない。ただの“沈黙”よ」
周囲が水を打ったように静まり返る。
「立場が違う?年が離れている?だから言葉を飲み込む?――ならば、何も始まらない。それで私にどうしろというの?私が、彼らの心を勝手に想像して、告白するのを待っているとでも?私は何年待てば良いのかしら?」
ラミラは思わず視線を落とした。胸がチクリと痛んだ。
「レオナルド様は、私個人を見て、私の想いにきちんと向き合ってくれた。言葉を重ねて、想いを重ね、私という人間を知り愛してくれたの。それが、私の婚約理由よ。――以上」
そう言ってセレスティアは、微笑を消さずに踵を返し、局長室へと入っていった。
誰もが、何も言えなかった。けれど心の中では、静かに頷いていた。
“確かに、その通りだ”――と。
そして何より、その言葉の矛先が、ただラミラだけに向けられたものではなかったことを、多くの者が感じていた。
局長室の中で、セレスティアは静かに机につき、マリアが入れてくれたお茶を口に運んだ。
少しだけ熱く感じたその香りに、ようやく心が落ち着きを取り戻していく。
この一件を、エリオットとエリックもまた、偶然耳にしていた。
静かに語られた“答え”は、想像以上に明快だった。
なぜ彼女が自分たちを選ばなかったのか。
――それは、踏み出さなかったからだ。
自らの想いを、真正面から伝える勇気を持たなかった。
立場を言い訳にし、タイミングを言い訳にし、彼女との距離を「保って」いたつもりが、実は自ら「隔てて」いたのだ。
ほんの一歩を踏み出せなかった。それだけの差が、すべてだった。
あの距離感は、彼女が作ったものではなかった。彼ら自身の心が生み出した壁だったのだ――。




