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第七十一話 子供の時期の終わり

朝の柔らかな光が差し込む寝室の中で、私は目を覚ました瞬間、激しく後悔の念に襲われた。全身を包む妙なだるさ、ほんのり残る火照り、そして――何より、記憶が……ない。


「……やっちゃった……」


ベッドに伏せたまま、自らの額を押さえた。どうして昨日の夜の記憶がまるっと抜けているのか。思い出せないということは、きっと、何かしら“やらかした”に違いない。恐る恐る起き上がり、軽く治癒魔法を使って頭の重さを吹き飛ばすと、急いで身支度を整え、朝食の場がある食堂へと向かった。


扉を開けると、そこには見知った顔が並んでいた。昨晩屋敷に泊まったのだろう、お祖父様、デュパール叔父夫妻にクロード、エバンズ家の祖父母と叔父夫婦に従姉妹のエミリーたちが、皆そろって朝食を取っていた。


心臓が跳ね上がる。


これはもう逃げ場がない――そう悟った私は、気まずさをできるだけ隠しながら、小さくお辞儀をした。


「皆様……おはようございます。昨日のこと、ほとんど覚えておりませんが……もしも何か、失礼がありましたなら、心よりお詫び申し上げます」


静まり返るかと思いきや、皆が和やかな表情でそれぞれに言葉を返してくれた。


「気にしないで。若いうちしか見られない可愛さってあるものよ」


「いや~、久しぶりにほんわかした気持ちにさせてもらったわ」


「今度はおじさんの家にも泊まりにおいで、歓迎するから」


ありがたい言葉の数々に内心ホッとしながらも、何があったのかがわからないのは怖い。兄と姉をちらりと見るが、二人とも見事なまでに素知らぬ顔でパンを口に運んでいた。


ぐぬぬ……教えるつもりはなさそうだ。


両親の方を見やれば、こちらも同様で、母はにこやかに紅茶を飲み、父は新聞を広げていた。祖父の方はというと、やけにご機嫌な笑顔でこちらを見つめていた。


「……お祖父様、わたくし昨日、何かご迷惑を……?」


そう尋ねると、祖父は声を立てて笑いながら、あっさりとこう言った。


「いやいや、じいじが一番だって、実感しただけだよ」


――何がどうなってそうなったのか。


エミリーを見れば目を逸らされ、クロードにまで同じ反応をされる始末。


ああ、もう……。職場に顔を出すのが憂鬱になってきたわ。


とはいえ、気持ちを切り替えねばならない。今日は久しぶりにエミリーの家族たちと王都近くの湖畔へ出掛ける予定だった。小さい頃、体調を崩しやすかった私は、気候が穏やかな内陸部にあるエバンズ家に何度か預けられていたことがあり、そのときの思い出がたくさん詰まった湖畔に似た場所でもある。


朝食を済ませ、皆で馬車に乗り込み湖へと向かう。私はエミリーとお婆様の間に座り、向かいにはクロード、兄アレク、そして姉リディアが並んだ。


「ミスレイお婆様、今度お休みが取れたら、またお邪魔してもいいかしら?」


そう声をかけると、お婆様は嬉しそうに頷いた。


「ええ、もちろん。だけどね、今回は長めに休みを取りなさい。短いと楽しみきれないわよ」


「セレが来たら、私と同じ部屋ね。朝までいっぱい語り合うの。リディア姉様も来る?」


「そうね、たまにはいいわね。セレのお休みに合わせて行きましょう」


――ふふ、楽しみだな。


その頃、馬車の一角で男子二人がこそこそと話していた。


「なあ、アレク……セレって、エバンズ家とやけに仲良いよな?」


「当たり前だろ。小さい頃よく風邪を引いて寝込んでたから、あっちに預けられることが多かったんだ。エミリーとはリディアよりも姉妹みたいなものだったよ」


「……そうだったのか。いつ行ってもサフィール家にセレがいたから、気づかなかった」


そんな会話が交わされるとも知らず、馬車は湖畔へと到着した。


湖のほとりに立った私は、太陽の光を浴びてキラキラと光る水面を見て思わずはしゃいだ。


「兄様、早くっ!舟に乗りたい!」


「もう少し落ち着け、セレ。舟は逃げないぞ」


「エミリー、姉様、一緒に乗る?」


「私は木陰で休んでいるわ」


「わたくしもご一緒に、涼んでいますね」


二人は涼しげなシートの上でパラソルの下、優雅にくつろぎ始めた。


「クロードも、一緒に乗る?」


「セレがはしゃぎ過ぎて湖に落ちたら困るから、僕も行くよ」


そうして、私と兄、そしてクロードの三人で舟に乗り込んだ。手漕ぎの小舟が湖面に滑り出すと、頬を撫でる風が心地よく、どこまでも穏やかな時間が流れていった。


はしゃいでいたはずの私は、ふと静かになって波を見つめた。


目の前に広がる水面を眺めながら、ふいに思った。


――私は、あまりに急いで大人になろうとしすぎたのかもしれない。


もっと、ゆっくり歩いてもよかったんじゃないか。そんな思いが胸に差し込み、込み上げるものがあった。でも口に出したら、壊れてしまいそうで――私はただ、ぐっと唇を噛んで、こらえた。


そのとき、左右からそっと手を握られた。


「舟の上だから、大丈夫。誰にも見られてない」


「……泣いてもいいんだよ」


優しい兄とクロードの声に、私はとうとう堪えきれなくなった。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。ああ、ようやく――子供だった私に、お別れが言える。


泣き尽くした後、私は涙を拭いて、笑った。


「兄様、クロ兄様……ありがとう」


二人とも、ぐしゃぐしゃな顔をしながらも笑っていた。


「泣き顔で笑うな、ブスになるぞ」


「いや、セレは泣いてもブスじゃないよ。安心しろ」


「……どっちなのよ」


三人で顔を見合わせて、同時に吹き出した。舟の上で風に包まれながら、私は静かに呟いた。


「さようなら、子供だった私」


そして、小さな舟は、穏やかな湖の波に揺られながら――未来へと静かに進んでいった。


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