第六十九話 失った大切な記憶
ギラン帝国との折衝は続いていた。創造魔法の情報流出という事案がもたらした波紋は小さくはなかったが、それを逆手に取るように、我が国の外交部署は連日交渉の場を設け、有利な条件を引き出すためにあらゆる手段を尽くしていた。後方支援局としても、いざという時に“切り札”となる解除装置の準備が必要だったが……正直なところ、肝心のその装置自体はまだ影も形もない状態だった。
そこで、私は迷うことなくサマイエルに頼むことにした。急ぎで、押しボタン式の解除装置を一基。仕様は「起動すると半径100キロ圏内にいる者の“創造魔法”および“後方支援局”に関する記憶を消す。密入出国した人の顔色を元に戻す。」というもの。記憶の痕跡が残らぬよう、術式は静かに、穏やかに作動するよう配慮してもらった。
問題は――いや、問題というより、頭痛の種だったのは――ジークフリート殿下の存在だった。
どうやら帝国側との調整もまだ終わっておらず、本人も解除装置を手にするまでは帰国するつもりはないようだった。とはいえ、だからといって毎日のように後方支援局へ顔を出されても、こちらとしては非常に……迷惑である。
「セレ、これは何に使うのだ?」と、分厚い資料の山を勝手にめくりながら訊いてくるので、「ジーク、うるさいです。邪魔ですから、あちらで座っててください」と突き放す日々。
それでも「セレ、遊びに来たんだが、皆忙しそうだな……何か手伝うことはないか?」などと、空気を読まない皇太子殿下は意外にも手持無沙汰を嫌うタイプだったらしく、ついには、
「ではこの書類を行政局に、こっちは魔導院へ届けてください」と、何の躊躇いもなく仕事を押しつけていた。
あくまで“労働力”として。なにせ、ただで動いてくれるのだから、これほど都合のいい存在はなかった。
クロードはその様子を見ては申し訳なさそうな顔をしていた。「本当にすまない、もうあと2日ほどで帰るはずだから……」と苦笑しながら頭を下げてくれたが、むしろ私たちは効率的に動かす術を覚えていたので、さほど困っていなかった。
それにしても、なぜここまでジークフリート殿下はクロードにこだわるのだろう――そう思い、何気なく尋ねてみたことがあった。
すると殿下は、どこか遠い目をしながら言った。
「初めてだったんだ……皇太子として扱われずに、人として向き合われたのが。クロードの態度は冷たかったが、そこには偽りのない優しさがあった。だから、もっと近くにいたいと思って側近に誘ったのに……断られてしまって。だから余計に……セレスティア、確かに私は君に、少し嫉妬していたのかもしれない」
その瞬間、思わず口に出てしまった。
「マジでキモいな……なに、ボーイズラブなの?」
言葉にした直後、自分でもしまったと思ったが時すでに遅し。ジークフリート殿下はきょとんとした顔で、「ボーイズラブとはなんだ?」と真顔で尋ねてきたので、やむを得ず説明する羽目になった。
「男性同士の……愛情の物語です。感情的にも、時には……肉体的にも、深く結びつくものを描く作品でして……」
そう、なるべく丁寧に、文化的な側面も交えて説明してみせたところ、殿下は絶句したまま固まっていた。
「確実にそうかなと私は思っております」と念押ししたら、顔をしかめて唇を噛みしめるような複雑な表情になったのが少し面白かった。ジークとのやり取りは馬が合うのか、軽快な口調で言葉が飛び交った。
そんなやりとりを繰り返しながらも、忙しい日々は粛々と過ぎていき、気がつけば外交交渉も最終段階に入っていた。我が国側が提示した条件はすべて通り、条約として結ばれることになった。解除装置も無事に完成し、約束通りジークフリート殿下へ手渡す段となった。
その日、後方支援局からクロードと共に見送りに出たとき、殿下は装置を手にしてもなお、しばし動かなかった。
そして――いきなりだった。
「セレスティア……!」
呼ばれて振り返った瞬間、殿下が私に向かって突進してきた。抱きつかれる、と思った瞬間、私は迷わず隣にいたクロードの腕を掴んで、彼を前に押し出した。
結果、ジークフリート殿下はそのままクロードを抱きしめ、感極まった声で言った。
「……こんな気持ちは初めてなんだ……!」
静まり返るその場で、私たちは誰も何も言えなかった。
愛の告白というにはあまりに直球すぎて、クロードは呆然とし、私は目を逸らすしかなかった。サマイエルとセレガルは、笑いを堪えるのに必死だった。
数秒後、ようやく我に返ったジークフリート殿下は、自分が今、何をしていたかに気づき、クロードを抱きしめたまま固まった。そして、同時に気まずさに顔を歪め、二人とも心底嫌そうな顔をしていた。
そんな奇妙で騒がしい別れとなったが、ようやくジークフリート殿下は国境へと向かった。
その後、殿下は通行許可所を通過した。その瞬間――忘却装置が静かに作動し、“創造魔法”と“後方支援局”の記憶は霧のように消えた。
そして殿下は、許可所を越えた後、ふと立ち止まり、しばらくその場を動かなかった。
何かが、自分の中から抜け落ちた感覚。胸が空洞になったような、喪失の痛み。けれど、何を失ったのかがどうしても思い出せない。ただ、なぜだか分からない涙が、頬を伝い続けていた。
切なさと寂しさだけが、彼の胸に残された――そんな別れだった。




