第三十七話 波紋の中心で
「……っ……軍務卿……!」
椅子の肘掛けを白くなるほど握りしめたまま、エリオットはついに頭を抱えた。ぐらつく視界の中、誰の顔も見られない。目を合わせたら、今にも何かが崩れ落ちそうだったからだ。
だが、残酷にも時間は止まらない。
「……ちょ、ちょっと待ってください、ハルシュタイン閣下。それは、その……どういう、文脈での話で……?」
真っ先に動いたのは、第二騎士団のサマイエルだった。腰に手を当てて、笑いを堪えるというよりは、もはや楽しみを見つけたという顔で首を傾げる。
「ええと……“はじめても貰った”って……」
「おい、やめろサマイエル……!」
エリオットが思わず声を荒げると、レオナが「“貰った”……って何を……?」と、こめかみに指を添えて真剣に考え込む。エリックはというと、眉間を押さえながらも肩が微かに震えていた。笑いを堪えきれない男の、あれは敗北の兆候だった。
「うっかり口を滑らせたようじゃな。すまんすまん」
本人は反省の色など微塵もなく、のんびりとした声でそう言いながら、ハルシュタイン侯爵は茶菓子の皿に手を伸ばして、一枚だけ残っていた薄焼きの干し果実菓子を摘んだ。
「……ふむ、これ、干してからもう少し砂糖を振ると良いんじゃがな」
「……お菓子の評価してる場合ですか……!」
叫びたい気持ちを押し殺し、エリオットは顔を伏せたまま拳を握り締めた。あまりにも不意打ちすぎた。ましてや“初めて”などという言葉を、この重鎮の口からぶっ込まれるとは思いもよらなかった。
「――よし、皆そこまでにしておけ」
抑えの利いた低音が場の喧騒を一気に静める。アルドレア王の威厳ある声に、その場の者すべてが瞬時に姿勢を正した。
「エリオット。……感情が揺らぐのは、悪いことではない。だがな」
王は椅子から立ち上がり、部屋の奥にある窓辺にゆっくりと歩み寄った。そして、手を後ろで組んだまま、広がる王都の景色を見下ろしながら続ける。
「任務中に私情が入りすぎると、肝心な“兆し”を見逃す。今回、そなたが報告すべきことの多くを見落としていたのは、そういうことだろう?」
「……はい」
エリオットは、悔しさと恥ずかしさとで視界が滲むような気がした。
「しかしな」
王は振り返り、彼に真っ直ぐな視線を向けた。
「それでも――そなたが見ていた“彼女”の姿が、他の誰よりも真に迫っていたのは事実だ」
「……陛下……?」
「人は、心を通わせた相手のことを最も深く見ることができる。だからこそ、今後はその目を『道具』として鍛えろ。感情を恐れるな。ただ、それに溺れるな。それだけだ」
「……はっ」
その言葉に、エリオットは背筋を正して深く頭を垂れた。
「それともう一つ――」
王は、わずかに口元を緩めると、にやりと笑った。
「セレスティア嬢の件は、もはや“王宮内政”としても関わってくる事案になりそうだ。あの娘の視線の先に、誰が映っているのか……わたしも少し気になるところだな」
その瞬間、再び室内の空気がざわめいた。まるで、静かに落ちた一石が湖面を伝って波紋を広げるように。
「……“王宮内政”……?」
レオナが小さく呟くと、サマイエルが「おや、これは国を巻き込む恋の予感ですかねぇ」と意味ありげに笑う。
「いや、もはや政略……?」とエリックが続ければ、
「エリオット、逃げ道はもう……」とエリーナが小声で囁いた。
――逃げ道。
その言葉が、何故かエリオットの胸に重く響いた。
何から逃げようとしていたのか。何に目を背けようとしていたのか。護衛という盾に隠れ、彼女の笑顔を遠巻きに眺めることで安心していたのではないか――。
自分がただ彼女の隣にいたいと、そう思っていたことすら、ずっと認められずにいた。
それが、ようやく言葉にならぬまま、心の奥に輪郭を持ちはじめていた。
陛下は視線を皆に移し。
「さて。報告も一通り済んだことだし……そろそろ“本題”に入ろうか」
場の空気が一変した。
エリオットをからかっていた面々も、さっと顔つきを引き締める。
「セレスティア嬢の旅路を通して浮かび上がった、諸国の不穏な兆しについて――その“解析と対策”こそが、本来の我々の議題である」
王の言葉に、空気は凛と引き締まり、先ほどまでのぬるさは幻だったかのように霧散していた。
だが、その中心にいたエリオットの胸の内には、まだ熱が残っていた。
あの旅路で触れた温度。
近すぎる距離。
誰にも気づかれたくなかった感情。
だが、それらすべてが明るみに出てしまった今――彼はもう、“見ているだけ”の立場に戻ることはできなかった。
彼女の隣に立つべきか、それとも背を向けるのか。
その選択の時が、刻一刻と近づいている。




