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第三十四話(エリオット視点)

カイゼナル国で彼女が「城下町の様子を見てみたい」と申し出てきたことがきっかけだった。彼女が外の世界に興味を持つのは理解できるが、それを口にするとは思わなかった。国の状況もあって、王族や貴族の外出は歓迎されるものではなかったが、彼女の願いを無碍にする理由もなかった。案の定、相手国の対応は芳しくなかった。犯罪が多いから、などともっともらしい理由を並べていたが、他国の目に現実を晒したくなかっただけなのだろう。どうにかして許可を取りつけたが、当然のように監視役としてセダン殿が同行することとなった。まぁ、致し方ない。


市場に足を運ぶと、街の言葉が飛び交い、私はまるで読めない書に囲まれた気分だった。一方の彼女は、少し緊張した面持ちで果物を売っていた老婆に声をかけに行った。どうやら急ぎ覚えた片言の言葉が通じたらしく、頬を赤らめながらこちらを振り返り、「通じましたわ」と嬉しそうに言っていた。そんな些細なことで喜ぶ姿を見ると、こちらまで温かい気持ちになる。だが、異国の貴族というだけで人々の視線は冷ややかだった。護衛の数も多かったせいか、彼女が何度声をかけても会話が成立することはほとんどなかったようで、肩を落として戻ってくる姿にはさすがに同情した。


夕刻には、王子たちとの晩餐会があった。万が一の事態に備え、私は彼女の傍から一歩も離れず警戒していたが、隣のナイラ嬢と耳打ちする姿が目に入った。「ねえ、ナイラ。王子たち、話すのが早すぎて……全然聞き取れないわ」「私もさっぱりですわ」──どうやら、あまり上手くいっていないようだ。安心したと言えば語弊があるが、何事もなく会が終わり、胸を撫で下ろしたのも事実だ。


その後の滞在は思っていたよりも短く、再び船に乗ることになった。港でセリーヌ侯爵と別れる際、彼女たちは手紙を託していた。内容は聞かずとも分かる。感謝の気持ちだろう。帰りの船には、彼女の母君が関係する商会の者たちも同乗していた。細やかな心配りの現れなのだろう。無事に港へ到着すると、サフィール家の家族が総出で迎えに来ていた。まるで、旅立ちから今日までが夢のように思えた。


だが、そこで思わぬ出来事があった。護衛任務の終わりを告げられる、そう分かってはいたはずだ。彼女が私に向き直り、丁寧に別れの挨拶を述べてきた。その瞬間、言葉が喉の奥に詰まり、とっさに口から出たのは「帰らんぞ」だった。自分でも意外だった。気づけば「王都までが任務だ」と、必死に取り繕っていた。彼女は目を丸くし、「旅の間、一言も話されなかったから、嫌われているのかと」と小さく呟いた。思わず心が締めつけられた。まさか、そんな風に思われていたとは。「邪魔をしたくなかっただけだ」と返すのが精一杯だった。


サフィール家に着いてからは、彼女の姿が家の中に溶け込んでいくのを黙って見ていた。部屋は隣同士ではなかった。そのことに、思いがけず胸の奥がぽっかりと空いたような感覚があった。以前の旅では、壁越しに彼女の動きが伝わってきた。今は、それすら感じられない。ただ、それだけのことなのに妙に寂しかった。


休暇の間、彼女とナイラ嬢は楽しげに領地内を巡っていた。海辺を歩いたり、町を散策したり──私はそのすべてに付き添っていた。ただの任務だ。任務のはずだった。けれど、気づけば彼女の笑顔が視界に入るたび、少しだけ心が穏やかになっていた。おそらく、それに気づかぬふりをしていたのは自分自身だろう。


そして、ついに別れの時がやってきた。王都に着いた日、ナイラ嬢を送り届け、サフィール家の屋敷前で彼女が言った。「本当にありがとうございました。どうかお気をつけてお帰り下さいませ」と。優雅に微笑んで、まるで一冊の本を閉じるような静かな終わりの挨拶だった。言いたいことが喉まで出かかっていたのに、言葉にできず彼女の後ろ姿を見送った。結局何も言えないまま、心に残ったのは、ただひとつ。言葉を、もう少し早く伝えていれば──という、後悔にも似た思いだった。


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