第二十三話 友の笑顔を守りたい
ルクリツ公国の居城は、まるで童話から抜け出したような、荘厳でありながらどこか幻想的な佇まいをしていた。白い石で築かれた城壁に蔦が絡まり、塔の尖端は空を突くようにそびえ、天候の加減か、全体がどこか沈んだ色に見えた。
私たち一行が謁見の間へ通されたとき、既に公主ライオネル殿下と、その妹君リーリア公女、そしてその夫君であるサマイエル伯爵が控えていた。
そして、あの一幕は、唐突に始まった。
セリーヌ侯爵がその場に足を踏み入れた瞬間、リーリア公女がぱあっと表情を明るくさせ、まるで幼子のように駆け寄り――
「おじ様!」
その声を上げて、躊躇なく侯爵の胸元に飛び込んで抱きついたのだ。
私は思わずナイラの方を見た。ナイラも私と同じように目を見開き、固まっている。
「……今、なに?」
目の前の出来事が現実とは思えず、まるで舞台の稽古でも見ているかのような錯覚すら覚えた。
いい歳をした公女が、大の男に勢いよく抱きついて、それを誰も咎めない。いや、それだけではない。侯爵はというと、頭をポンポンと撫でながら、「もういい歳なんだから、落ち着きなさい」と笑っている。しかも、どこかまんざらでもなさそうな様子で。
「……母親なんだから、少しは落ち着かないと。旦那様も困ってるぞ」
なんて、まるで本当に親子のような口ぶりだ。
横に立つナイラの気配が、すっと冷えたものに変わった。何も言わず、ただじっと侯爵の横顔を見つめている。瞳の奥にある温度は、限りなく氷に近かった。
このままではまずいと、私は直感的に判断した。
正面を見ると、王座に座る公主――ライオネル殿下が、まるで場に取り残された観客のように動かず、仮面を半分だけ装着したまま虚ろな視線を前方に落としていた。その目からは生気というものがまったく感じられず、ただ座っているだけの彫像のようだった。
この空気は、壊した方がいい。そう思った私は、一歩前へ出て、軽く裾を持ち上げて丁寧に一礼した。
「お初にお目にかかります。サフィール伯爵家の次女、セレスティアでございます。この度はお招きいただきありがとうございます。……セリーヌ侯爵様とも久方ぶりにお会いできたでしょうし、あいにく私どもには次の訪問先もございますので、挨拶のみでこれにて――失礼させていただきたく存じます」
語尾を濁さず、きっぱりとそう言ってから、ナイラの手をそっと取り、さあ行きましょうと目で合図を送った。
けれどその時、私はすぐに異変に気づいた。
ナイラが、ついてこない。
その視線は伏せられたままで、唇をぎゅっと噛みしめ、肩が微かに震えていた。拳をぎゅうっと握りしめ、どこか痛々しいほどに身体をこわばらせていた。
私はすぐさまセリーヌ侯爵に近づき、耳打ちした。
「……ナイラ様の様子が、少しおかしいです」
その言葉に、侯爵は一瞬で空気を変えた。柔らかく抱きついていたリーリア公女をすっと離し、迷いなく娘のもとへ歩み寄った。
「ナイラ、大丈夫か?」
返事はない。ただ、俯いたまま肩が揺れていた。
侯爵は無言でナイラを抱き上げ、静かに、けれど明確に告げた。
「少々、娘の体調が優れないようですので、今宵はこれにて失礼いたします。町に宿を取っておりますので、お気遣いなきよう。明朝、改めてご挨拶に参ります」
彼はそう言い、一礼してナイラを宝物のように大切に抱きしめてその場を後にした。
私もそれに続いて謁見の間を離れるとき、ふと振り返ると、リーリア公女が下を向いて唇を噛みしめていた。何かを飲み込むような、悔しさと悲しさが入り混じった表情。彼女なりに何かを察したのだろう。
その傍らに立つサマイエル伯爵は困ったような顔をしており、公主ライオネル殿下は、相変わらず空のどこかを見つめるように座っていた。あの目に映るものは、もはやこの世界ではないのかもしれない――そんな印象すら受けた。
なんとも言えない、重苦しい空気の残る謁見だった。
宿へ戻り、ナイラがようやく落ち着いたのを見届けてから、私は思いきって侯爵に問うた。
「……おじ様。ナイラ様があのような状態になった理由に、心当たりはございませんか?」
侯爵は腕の中の娘を見つめながら、困惑したように答えた。
「いや……謁見までは、普通だったはずだ。まさか、あれほど動揺するとは……」
私はそっと息を吸い込んで、声を静かに重ねた。
「原因は……リーリア公女の“おじ様”呼びと、あの抱きつきです。ナイラ様にとっては、あれはまるで父親を取られるような感覚だったのではないかと。幼い頃に、おじ様が一年以上お留守だった間、ナイラ様はたった一人でお屋敷に残されていました。その時、まだ八歳。あの時期、雷が鳴るたびに一人で布団にくるまって泣いていたのをご存じですか? ナイラ様が雷を苦手とするのは……おじ様の不在が原因だったんです」
静かな語りに、侯爵の顔がみるみる変わっていくのが分かった。
「リーリア公女が十四歳でナイラ様が八歳。今の私たちとほとんど変わらない年齢差です。ナイラ様は、あのときの孤独をずっと抱えてきたのです。どうか、他人と娘を――同じように扱わないであげてください」
侯爵は、しばらく何も言わなかった。そしてようやく、小さく頷きながらナイラの髪を撫で、低く語りかけた。
「……そうだったのか……本当に、何も知らずに……すまなかった。ナイラ、許してくれるか……?」
ナイラは、顔を真っ赤にしながらも何も言わず、ただ父の胸元に顔をうずめた。小さく肩が震えていたのは、怒りでも恨みでもなく、きっと――安心した証だったのだろう。
私は少しだけ目を細めて、ふうっと息を吐いた。
……と、隣を見ると、いつの間にかエリオットがこちらを見ていて、ばっちり目が合った。
「……なに?」
言葉にはしなかったけれど、彼の表情には「また何か面倒なことを言ったな」という呆れたような色が浮かんでいた。
……フン、好きに思えばいい。
私が大切にしたいのは、友達の笑顔なのだから。




