第一話 “セレスティア”として目覚めた朝に
目を開けた瞬間、やわらかな天井の模様が目に映った。透き通るような白ではなく、ほんのりと薄いクリーム色を含んだそれは、朝の光と重なってどこか懐かしいぬくもりを帯びている。
ゆっくりとまぶたを持ち上げるたびに、聞き慣れない鳥のさえずりが耳に届いた。風が窓辺のカーテンを揺らし、花の香りを運んでくる。ここが、もう「向こうの世界」ではないと、目覚めた瞬間に思い知る。
目の前に広がっていたのは、絹のようなシーツと、無垢材のベッド。大きな窓の向こうには、遠くに波の音がかすかに響いていた。
私は、伯爵家の令嬢――セレスティア゠サフィール。そう、思い出したのだ。もう随分前のことのような気がするけれど、確かに私は、前世で「母」だった。「妻」であり、「仕事人」であり、「誰かの役に立つ存在」だった。
でも今は違う。新しく与えられたこの世界で、私はまだ八歳だが、すでに過去を知っている魂を持った子どもとして、この地に生まれてしまった。
しかも、問題はすでにあった。
私には「婚約者」がいるというのだ。
それを知ったのは、記憶を取り戻して間もなくのことだった。家族の何気ない会話のなかで、「将来はバルデック子爵家の三男であるユリオと結ばれるのだよ」と、あたかも決まった事実として告げられたときの、あの心のざわめきを、今も忘れられない。
婚約者はユリオ様、四歳年上の騎士志望の少年。つまり今は十二歳。私とは、ろくに話したことすらないというのに。
――いや、正確には、あるにはあるのだ。年に何度かの訪問。礼儀正しく頭を下げ、上品に挨拶を交わし、ふわりと笑って手を取られる――まるで劇の中のワンシーンのような、その程度のやり取り。
そして私は、そのたびに「にこやかに」、「おとなしく」、「慎ましく」振る舞ってきた。お父様もお母様も、それが私の幸せだと信じて疑っていなかった。
だけど。
心の底では、ずっと、ずっと叫びたかった。
「こんな茶番、やってられるか!」
私は、彼が好きでもなんでもない。むしろ、嫌悪感すらあった。私という人間を知ろうともしないまま、「可憐なお人形」として扱う彼と、その周囲。私の言葉が欲しいのではなく、私の存在が“相応しく”あることを求めているだけ。
しかも、祖父同士が戦友だったという理由で決まった縁――。
それだけで人生を決めるなんて、あまりに滑稽すぎる。
だから私は、決めたのだ。どうにかして、この婚約を解消してやろうと。
けれど、そう簡単にはいかなかった。相手の家は代々軍人の名門。加えて、彼の祖父は私を「本当の孫より可愛い」と公言してはばからず、彼のご両親もまた「安泰な婚約」として喜んでいた。
私一人の意思では、びくともしない。
――ならば、動かせるだけの力を持とう。
そう思った。セント・エレノア女学院への入学を蹴って別の選択することを、表向きは隠しておいて、水面下で準備を進めることにした。
私は、王立学園の「高等科・特別科」を目指す。
王族や名家の嫡子でも、全履修を課される最高難度の学科。その分、卒業後はどんな進路も選べるほどの後ろ盾となる。
家に縛られない自分の人生の選択肢――それが、どうしても欲しかった。
日々の勉強は過酷だったが、前世での記憶がある私は、語学も数理も論理も問題なかった。むしろ楽しかった。知識を詰め込むたびに、自分という存在の芯が研ぎ澄まされていくようで。
だけど、神様って、やっぱり見てるのかもしれない。
あれほど困難だと思っていた婚約の糸が、思わぬ形でほつれ始めたのだ。
それは、婚約者様が「やらかしてくれた」からだった。
続く──