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第2話 かっちゃんと異形の龍

 ふと、振り返ったのは栗の花の匂いがしたから。


 いい匂いとは言い難い、あの酸い匂い。視界には田んぼと、葦の林と、さっきできたばかりの崖が見える。見渡すと、遠くの小高い丘には茶畑と住宅街が見える。どこかに栗の木が隠れているのかもしれない。

 そして、茶畑の丘の麓辺りに赤い屋根が見えた。


(少し遠いなぁ)


 屋根を眺めつつ、田んぼ道を歩きながら思い出したことがある。

 仕事終わり、私は羽の生えた根岸を見た。それから、それからーーそれ以上は思い出せない。

 ここはどこなのだろう。田んぼ道を真っ直ぐ進むと小川より大きい川(といっても川幅2、3メートル程度)に突き当たり、その向こう岸に雑木林が現れる。


(この川沿いを、赤い屋根の家方向へ行けばいいんだよね)


 今の私は根岸の言葉を信じて進むしかない。といって、「その指は治さないと死んでしまうからね」なんて、禍々しいことを言われたけれど、全く実感がなかった。

 川沿いの木々の梢は青葉を揺らしている。せせらぎからは、陽射しに温められた水の生々しい匂いが立ち込めていた。

 ふと思い立って、リュックの中からスマホを取り出す。こいつでここがどこか調べればいいんじゃないか。ついでにタクシーという名の助けを呼べばいいのでは?

 それにしても、いつもそばにおいているはずのスマホのことを忘れるなんて。リュックの中の小さなポケットからスマホを取り出して、画面を見る。


「あっ」


 思わず声が出てしまった。真っ暗な画面に付箋が貼られていた。


『この世界でスマホは使えません。狭間の世界だからです。川はこれ以上越えてはいけません。戻れなくなります』


 私の字だった。書いた記憶はないのに。


(ああ、使えないのか)


 不思議なのだけど、スマホを使えないとわかった途端に肩の力が自然と抜けていった。驚くくらい、すごくホッとしていた。

 もし明日までに帰れないとしたら休む旨を職場に電話をしなくてはいけない。母親にも連絡をしないと。そこに関してはちょっと焦る。だとしても、誰かから連絡が来ないというのはなんて気分が楽なのだろう。


(私は誰からの連絡を恐れているのだろうね)


 頑張ったところで思い出すことはできない。とにもかくにも赤い屋根を目指そうと、スマホをしまってリュックを背負い直した、その時。


「うわっ!」


 声が出てしまった。道の先で、人が倒れていたのだ。仰向けに。サンダルをはいた足を投げ出して。


「うわっ、だって」


 倒れていた人は私の声に答えて、むっくりと上半身を起き上がらせた。顔をしかめてこちらを見る。赤いパーカーを着た若い男に見えた。


「こんにちは」


 顔をしかめたまま挨拶をしてきた。


「こんにちは」


 反射的に返す。


「僕は清水和馬です。あなたは?」


「わ、私は、藤井です」


「藤井さん、かぁ。なるほど。なるほどねぇ」


 男の視線が私の手のあたりで止まる。指先は青くなったままだ。


「根岸がやらかしたんだね」


 男は苦笑いを落とした。


「根岸を知っているんですか?」


「知ってるよ」


「友だちですか?」


「うん、うん、友だち、友だち。その指を治してもらうために魔女の家に行くの?」


「そうです」


 その前に赤い屋根の家へ行くのだけど。


「ふーん、そうなの」


 男は興味なさそうに言って、ゆっくり立ち上がった。この男は色々知っているのかもしれない。何故指は青くなり、私はここへ連れてこられる羽目になったのか。聞いてみようか。でも、この男が信用できる相手である保証もない。そもそも、こんなところに寝転んでいる人なんて怪しすぎる。ただでさえ私は人見知りするタイプ。


「それじゃ、どうも」


 私は男を追い抜いて赤い屋根の家へ向かった。 

 頼まれた仕事を片づけるのをが先だ。せっせと歩いて赤い屋根の家にたどり着きたい。

 ところが、男は急ぐ私の後をついてくる。しかも、背後から話しかけてきた。


「あの、藤井さん。なんで同じ方へ行くんですか」


 それは私のセリフだ。と、思ったけれど、とにかく今は冷静を装う。


「赤い屋根の家に用があるんです。根岸から預かりものがあって」


 答えると、清水和馬は眉を寄せた。


「あれは僕の家ですよ」


「ええっ! そうなんですか?」


「ええっ!」


 驚いた私を見て、清水和馬も目を丸くした。


「なんで、清水さんが驚くんですか」


「だって、あなた。僕の家って知らないくせに根岸から僕に何かを預かっているんでしょ?」


 言われてみると迂闊だった。


「そうです……ごめんなさい。ちゃんと確認すればよかった」


 ああ、考え無しだった。届ける相手の名前も聞かず仕事を引き受けるなんてテキトー過ぎた。私はひとしきり反省をしないと気が済まない。


ーーやっぱり頭が悪い。

 何も考えないで仕事するなよ。

 周りが見えていない。

 冷静さを欠いている。

 自分のことしか考えていないから。やっぱりダメ人間。できない人間ーー


「ねぇねぇ」


 男は自責中の私に遠慮なく訊ねる。


「ところでさ、何を預かってます?」


「えーと、薬です。瓶の」


「見せて」


 手を差し出されて思わず躊躇した。


「でも、あなたが本当にあの赤い屋根の家の住人なのか、わからないですし」


「おや。疑うのね。じゃあ、おいでよ」


「おいで?」


「うん。うちにおいで。ついでだ。魔女も呼ぼう」


 清水和馬はポケットから黄色い風船を取り出し、膨らませ始めた。大きくなると、慣れた手つきで口を結び、ポケットから今度は油性マジックペンを出して、『集合!』と風船に書いた。


「これで来るよっ」


 私の方を見てニカッと笑った。


「ほんとに?」


「ホントホント」


 嘘も、何かの思惑も、全く感じさせない純真無垢な表情の中に、僅かな照れが隠れている。少年のような笑顔、の見本に見えた。


「本当に魔女が来るんですか?」


「来る来る」


 清水和馬が私に背を向けると、計ったように強い風が吹いた。手から離れた風船は、風に乗って空高く飛んでいってしまった。


「それじゃ、家で待とう」


「あの、清水さん」


「かっちゃんでいいよ」


 かっちゃん? 和馬だからだろうか。眉根を寄せた顔で言う。コミュニケーション能力が貧弱な私には、今日あったばかりの、しかも目の前でしかめている人をあだ名で呼ぶなんて。とてもできそうにない。


「初対面の人にかっちゃんはちょっと」


 私は正直に答える。


「そう?」


 清水和馬は少し考えてから、


「じゃあ、かっちゃんで」


 と、再び言った。何もわかっていない。


「だから、かっちゃんは無理です」


「そう? でも、かっちゃんで」


 大真面目な顔をして何故同じ話を繰り返すのだろうか。大事なことをはぐらかす気なのだろうか。そうはいかない。何とかして聞きたいことを聞き出してやろう。


「あの、清水さんは、ここがどこか知ってますか?」


「根岸に聞いてないの?」


「聞いたとしても、忘れました」


「まあ、そうか。川を渡ると記憶を失うもんね。ってことは何も知らないのかぁ」


 そう言うと、黙り込み、そのまま歩き出したので、その背中についていく形になっていた。


 私は胸を撫で下ろす。この男と距離を取りつつ、道案内をしてもらえることに安心したからだった。



 ーーほら すぐ誰かを頼ろうとする。その誰かを好きでもないくせに。人にやらせておいて、お返しもしないくせに。人任せ。無責任。ワガママ女ーー


 清水和馬の背後を歩く自分を責めていると、不意に川の方でピチャンッという音がした。魚が一匹跳ねた音か、平和だな、なんて思ったのは一瞬のことだった。一回のピシャンッをきっかけに、音は波紋のように広がり、ボリュームを上げていく。ビシャビシャと水面で無数の何かが暴れる音がしている。

 あまりの騒音に私は立ち尽くしてしまった。 清水和馬は素早く振り返り、


「しゃがんで」


と、いって身を屈めた。


「早く!」


 戸惑う私の手を引っ張り、強引に座らせる。それから着ていたパーカーを素早く脱いで私にかぶせた。強張った顔はさっきのふざけた男とは別人みたいだった。


「来る」


 得体のしれない水音が膨れ上がると、今度はおびただしい羽音が耳に襲いかかる。


「頭を下げて」


 言われなくても恐ろしくて恐ろしくて。言われなくても、目を固くつぶり、耳をふさいで体を縮めていた。


 お前も龍になれ


 不意に声がして、耳から手を離す。頭の中で響く声とは違う何かが囁いた。


(お前も龍になれ?)


 思わず目を開き、顔を少し上げてしまった。すると、視界いっぱいに虹色の羽の生えた魚が飛んでいた。川からこちらに向かってトビウオ、いや、魚がではなくて鳥かもしれない。鳥みたいな翼が生えている。でも体も翼も虹色の鱗に覆われているように見える。無数の得体のしれない生物が通り過ぎていくのを呆然と眺めた。


「あれは何?」


「龍だよ」


「あれが龍?」


 龍といえばもっと大きくて、馬鹿でかい蛇みたいなものかと思っていた。


「飛んでくるものなの?」


「いや。あなたがいたから」


「私?」


「仲間の匂いがしたんだよ」


「私、仲間じゃない」


「龍に成りかけているじゃない」


「えっ?」


「指が青いから」


「どういうことなの?」


「話は長くなる。龍が去ったらうちへ急ごう。話してあげるから。本当は根岸が説明すべきだけどね」


「……ありがとうございます」


「家に入るまで僕のパーカーは被っていてね」


 苦笑いする清水和馬をじっと見つめ、私は頷いた。



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