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第1話 爪の先が深い青


 小川を飛び越え、両足を踏みしめたと同時に、私は忘れてしまった。


「ね、いった通りでしょ?」


 目の前では先に渡っていた長身の男、根岸が底抜けに明るく笑っている。


(ここはどこ? 私は何故ここに?)


 背中には少し重いリュック。足元からは土の匂い。小川の先には水を張った田んぼと、葦の林と、柳の木とがある。この、初夏のキラキラとした風景が男の爽やかさを絶妙に際立たせることに、モヤモヤをとめられない。


「この小川を飛び越えると忘れてしまうんだよ」


 確かにそんなことを、言っていたような気がする。

 何もかも忘れるわけではなくて、私は誰であるかーー例えば、もう恋人と別れて1年以上経つとか、明日は今月4度目の休日出勤とか。次の休みも母親を病院に連れて行かなくてはいけないとか。

 覚えていることは覚えている。

 ここまでの経緯でいえば、この目の前の男、職場の同僚である根岸に、知らない街へ連れてこられたこと。知らない駅の駅前の小さな駐車場に車を停め、どこか狭くどこか色褪せた住宅街を歩いた先に、突如田園風景が現れたこと。途端、五月の青く眩しい空が広がり、風が渡る。心の大半を不安が占めているはずなのに、不思議と清々しい気分だった。

 そして、この小川にたどり着いたのだ。


ーーここを越えるといくつかのことを忘れるからね


 根岸が言ったのを確認し、頷き、私はここを飛び越えた。ワクワクした気持ちで。

 ここまでちゃんと覚えている。それなのに、ここへ来た目的は忘れていた。腹立たしいことに、根岸の言ったとおりになった。


「根岸はどうしてここにいるの?」


 私は何故根岸といるのか。あまり使っていないリュックを背負っているのか。それすら覚えていない。


 根岸は勤め先のグループホームの職員の一人だった。彼は夜勤、私は日勤なので、申し送りのときに業務的な会話をし、ちょっとしたおしゃべりをする程度で、大した関わりはない。もちろん連絡先も知らない。

 それなのに何故、彼の車に乗って知らない街へ来て、こんな場所に立っているのだろう。

 思い出せない。朝起きて、夢を見ていたことは覚えているのに内容は忘れてしまった時の感覚に似ているような気もする。違う気もする。


「俺のせいなんだよね」


 根岸は私をじっと見つめ、申し訳無さそうに(ただしわざとらしく)眉を寄せた。


「根岸のせい? どういうことなの?」


「ごめんね。でも、わかるよ」


「わかるってどういうこと?」


「まあまあ」


 どうやら、はぐらかす気しかないらしい。


「ちゃんと教えて」


「まあまあ」


「まあまあじゃなくて」


「まあ、指先を治してもらってね」


「指先?」


 見ると、両手の指先5本全てが青く染まっている。何を間違えたかは知らないけれど、青いペンキのバケツに第一関節まで突っ込んでそのまま乾かしたのではないだろうか。そんな意味不明なことはしないけれど。


「この指何? 治してもらって、誰に?」


「魔女にだよ。この先に川沿いに住んでいるよ」


「魔女? 魔女って誰?」


「僕の知り合い。大丈夫、悪い人じゃないから。それからこれ」


 根岸は突然、私の手を掴むと手のひらに小瓶を乗せた。市販のスパイスの瓶に見えるけれど、ラベルの文字は解読できず中身は謎。


「これはなに?」


「薬だよ。魔女の家へ行く途中に赤い屋根の家があるから、そこに住んでいる人に届けてね。これ飲まないとその人の持病に悪いんだなぁ。あと、その指は治さないと死んでしまうからね。じゃあ、帰るね」


 言いたいことだけ言った根岸はくるりと背を向ける。その背中の真ん中が仄かに光り、そこから大きな翼が生えた。

 その異様な光景を黙って見つめるしかできなかった。

 翼は陽の光につやつやと照らされ、シャボン玉の色をしている。まるで鱗のように見える羽根は近くで見ると透明なのかもしれない。

 異様だけど、あんまり優しい色彩に見とれてしまった。どうやら青い指は放置したら死んでしまうらしいという重大で深刻な発言は一旦消えた。そして、ゆっくりと思い出していた。初めて見るわけではない。この翼は最近見たばかりだ。


「健闘を祈る!」


 呆けている私を置いて、根岸は小川をふわりと飛び越え、翼を羽ばたかせ、そのまま空へと消えてしまった。


「待って!」


 追いかけようと身構えた瞬間、小川の向こう岸が突然迫り上がった。私の身長よりも高くなった対岸へは、どうやってジャンプしても渡れそうにない。


「根岸!」


 さっきまでいた小川の向こう側は崖の上になって見えない。


「根岸!」


 もう一度呼んでみる。返事はない。何も説明しないまま、届け物を一つ押し付けていなくなった。 知らない場所に一人きりになってしまった。


(濡れていいから川を渡って、崖を登ってみようか)


 見えないとはいえ、根岸は向こう側にいて、帰り道があることをはわかっているのだから。小川は小川だけに、溺れるような深さでも流れでもない。水もきれいだ。

 こんなところに置き去りにされては困る。追いかけなくては。


(でも、空を飛んでいる人に追いつくだろうか)


 それに、追いついても説明しそうにもないけれど、それでも戻らなくては。無理にでも詳細を話してもらうために、戻るべきだ。そう思いながら、私の足は動かなかった。


(戻りたい?)


 ふと湧いた疑問に、即座に答える。


(なんか、戻りたくない)


 このまま進みたい。崖を登ってまで戻りたくない。

 汚れるとか、どうせ答えそうにない根岸に説明させるのがめんどくさい、羽の生えた怪しい男だし、等などというのとは別に、もっと心の深いところで、小川の向こうの元の世界に引き返すのが嫌だった。


(なんでだろう。戻るのが気持ち悪い)


 理由はちゃんとありそうなのに、その記憶にも霧がかかっている。明確なのは戻りたくないという自分の気持だけ。


(進もう)


 治さないと死んでしまうらしいから。 瓶も預かってしまったのだから。


 その時、頭の中に声が響いた。


ーーグズ、ノロマ、仕事はどうするの?

 無責任女。だいたい、お前の判断が正解だったことがある?

 帰らなかったことすぐに後悔するよーー


 誰かが私を否定して、胸いっぱいに嫌な気持ちになる。

 セルフ否定、セルフモヤモヤ。

 でも、これはいつものことだ。私の悪い癖の一つだ。


(知らん知らん)


 脳内否定を振り払い、キラキラとした田園風景の中を歩き始めた。





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