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第三章 籠の中の翡翠 3

 極上の嶺北白磁の茶器で玉楊が手ずから茶を淹れてくれる。


 こぽこぽと気持ちのいい音を立てて、鮮やかな紅い色の茶が椀へと注がれてゆく。


「これは法狼機(フランキ)の――リュザンベール風の熟茶でな。梨花殿さまがこの頃贈ってくださったのだ」

 微笑みながら茶を淹れる玉楊の横顔は静謐だった。

「初めはあの方を憎いと思った――なぜ貴妃をみな廃させるのかと怨みに思ったものだが、あの方のお生国(くに)では、一人の夫に一人の妻が添うのが普通であったのだろうなあ」

「法狼機のやり方が何もかも正しく、双樹下が何もかも間違っているわけではありませんよ」

 蘭涼が思わず言い返すと、玉楊は微苦笑し、慣れた優雅な手つきで椀を差し出してきた。

「飲め。良い茶だぞ」

「いただきます」

 丁重に礼をして紅い茶を一口含むと、かなりの渋みはあるものの独特の爽やかな香味があってなかなか美味しかった。

 しかし、やたらとなみなみ注がれている。

 そのうえかなり熱い。

 猫舌の蘭涼がすべて飲み干すにはかなりの時間がかかりそううだ。

「恐れ多くも梨花殿様ご下賜の茶だ。ゆっくり最後まで賞味しろよ。雪衣、そのあいだに話してくれ。蘭涼に何があったのだ?」

「それはですね――」

 蘭涼が必死で茶を飲むあいだに、気遣いにかける主計官がてきぱきと説明してしまった。



「なんと、そのようなことが――」

 説明を聞き終えた玉楊は難しい顔で黙り込んでしまった。

 ようやくに茶を飲み終えた蘭涼は慌ててとりなした。

大嬢(ひめさま)、どうかお気になさらず。結局のところ疑いは晴れたのですから」

「ああ、確か紅花殿が自害したのだったな」

 玉楊が傷ましそうに言い、また茶器を取って、新たな椀に茶を注ぎ始めた。

 こぽこぽと茶の流れる音がする。

 気まずく重い沈黙が流れた。

「なあ雪衣――」

 玉楊が目を伏せたまま言った。

「なんでございましょう?」

「紅花殿はリュザンベール渡りの煙草で自害したと聞いた」

「ええ。そのようです」

「――その煙草は、どこから贈られたのだ?」

 玉楊が鋭く切り込むように訊ねた。

 蘭涼は愕いた。

 蘭涼の知る玉楊は、常に楚々として儚げで、風にも堪えぬ繊細な花のような姫君だった。こんな鋭い声を出せるとは夢にも思わなかった。

「応えよ雪衣。よもや西院梨花殿からではあるまいな?」



 雪衣はすぐには応えなかった。


 思いがけないほど驚愕した様子で表情をこわばらせている。


 玉楊は新たに淹れた茶を一息に半分ほど啜ってから、乱暴な手つきで残りを雪衣へと差し出した。

「飲め。恐れ多くも梨花殿様ご下賜の茶だ」

「――謹んで頂戴いたします」

 雪衣は深々と頭を下げると、椀をとり、躊躇いなく一息に飲み干した。


 途端、強張っていた玉楊の表情が和らぐのが分かった。


 椀を下ろしながら雪衣がにやりと微笑う。

「信じていただけましたか?」

「ああ。――すまんな。あの無邪気な正后さまが、今さらこの秋の扇を毒殺するとも思えぬが、もろもろのことを考え合わせると疑心暗鬼にかられてな」

「ご安心いただければ何よりです。正后さまの側も、このたびの毒殺騒動で、御身に後ろ暗いところはないと御示しになりたいがために、新内侍さまにわざわざ茶をお贈りになられたのでは?」

「なぁにが『では?』だ。しらじらしい」と、玉楊が三杯目の茶を淹れ直しながら面白そうに笑った。「あの稚い童女のような正后さまにそんな根回しが思いつくものか! どうせそなたの入れ知恵であろう? 左府を誑かした北院の雌狐めが」

「お褒めにあずかり光栄の至り――と申しておきましょうかね?」

 雪衣も片眉をあげて笑う。

 蘭涼は愕きに声もなかった。

 こんな大嬢は今まで知らなかった。まるで将棋を差すように、皮肉交じりの駆け引きを心から愉しんでいるようだ。



「ところで新内侍さま――」

雪衣が遠慮のかけらも見せずに茶請けの月餅を齧りながら訊ねた。

「今日はこの茶の毒見のためだけに、わたくしと斑竹房どのをお召しになったので?」

「そんな用事で二人判官を呼びつけるものか」と、玉楊が心外そうに応じる。「茶はついでだ。実は二人に相談したいことがあっての」

「大嬢、なにかお悩みが?!」

「新内侍さま、何かお困りのことが?」

 二人同時に応じてしまってから、気まずく顔を見合わせる。

玉楊が苦笑した。

「なに、そこまで重い話ではない。東崗(とうこう)蘭渓(らんけい)道院(どういん)さまから法会に招かれたのだ」

 その瞬間、雪衣の表情がぴくりと強張るのが分かった。

 どうもこの主計官は意外と感情が顔に出やすいようだ。

 玉楊も、気づいたのか眉を寄せる。

「雪衣はやはり反対か? 知っての通り、いまあの道院には李黛玉(りたいぎょく)が――(さき)芙蓉殿(ふようでん)の貴妃が住まっているであろう? あれがこの頃修練を終えて正式に入道するというのだ。黛玉とは同じ貴妃同士、西院で姉妹の付き合いをしていた。招かれたからには行ってやりたいが、いまこのご時世、前の貴妃同士がむやみと親しく交わると、梨花殿さまへの当てつけのように勘繰られるかもしれん。そう思うと躊躇われてのう――」

「それで、わたくしどもにご相談を?」

「ああ。蘭涼はどう思う。行っていいものだろうか?」


 それは勿論お行きなさいませ――と、蘭涼は口にしかけたが、寸前で思いとどまった。

 大嬢の案じる通り、反リュザンベール派の同情を一心に集めている前の貴妃二人が先代の王太后の御座所で顔を合わせるとなったら、世の人がどう勘繰るか知れたものではない。

「――やはり反対か?」

 玉楊が不安そうに訊ねてくる。

「いえ、とんでもない」

 蘭涼は慌てて否んだ。

「大嬢がお行きになりたいなら、どうぞお行きなさいませ。御心細ければこの蘭涼がお供をいたしますから」

 咄嗟にそう言ってしまうと、玉楊はぱっと表情を明るめた。

「そうか。そなたが来てくれるか。――雪衣はどうだ? やめておいたほうがいいと思うか?」

「――正直、わたくしはお勧めはできませんね」

 主計官は仮面のような無表情で応えた。

 蘭涼は苛立ちを覚えた。

「紅梅殿の判官どの、なぜ反対なさるので?」

 自分自身も今しがたまで心を決めかねていたことを棚に上げて訊ねると、雪衣は眉間にしわをよせ、聞き取りにくいほどの小声で囁いた。


「……――実は、紅花殿さまに煙草を下賜なされたのは、蘭渓道院さまなのです」

 

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