第三章 籠の中の翡翠 2
磨き抜かれた黒木の廊を延々と辿り、いくつかの坪庭を抜けると、ようやくに見覚えのある小さな庭へと出る。
銀灰色の石畳を敷いた二丈〔*6m〕四方ほどの坪庭だ。
四方を華奢な黒木の柱廊がとりまき、真ん中に青銅の水盤がある。
水盤の周りには沢山の鉢植えが並んでいた。
羊歯や万年青の鉢だ。
その傍に懐かしい小柄な貴女の姿があった。
掌に収まりそうなほど小さく繊細な丸顔と涼しい切れ長の目元。
一面に金糸で刺繍を施した深緑の上衣に明るい翠色の裳を合わせ、つややかな黒髪を背に解き流している。
蘭涼は慌てて駆け寄った。
「大嬢! お一人で、危のうございますよ!」
「開口一番それか! 蘭涼は相変わらず口やかましいのう。――ああ、今は斑竹房であったか」
貴女は――蘭涼の心の主君たる紅玉楊は、華奢な小鳥みたいな見目からは意外なほど低く落ち着いた声で言い、くっくっと喉を鳴らして笑った。
「お好きにお呼びくださいませ。それよりも、笑い事ではございません!」蘭涼は心配性の乳母みたいに言いつのった。「このごろ世間は物騒なのでございますよ? 前の石楠花殿の貴妃さまともあろうお方が、お供もつけずにお一人でお庭にいらせられるなど!」
「蘭涼、蘭涼、大丈夫だ。ここは東院の築地の内だぞ? 早いところ上がれ。珍しい茶を馳走してやる故のう」
玉楊は落ち着いた声で言い、さらさらと黒髪を揺らして屋内へと入っていった。
柱廊に面した控えの間に、顔なじみの女儒が二人控えていた。前の貴妃にじかに仕える女嬬は蘭涼とは同格の身分だ。軽く頭を下げるとあちらもお辞儀を返してくれる。
女嬬が紫檀の扉を開けると、その先は二丈四方ほどの明るい板の間だった。床には西域風の白と緑の絨毯が敷かれ、真ん中に黒檀の円卓が据えられている。
室内に一歩入るなり、白檀を基調にした懐かしい薫香が鼻腔をくすぐった。
――ああ、大嬢の匂いだ。
そう思うなり、蘭涼は唐突に涙ぐみたくなった。
「さあかけろ。茶菓はしばし待て。いま一人客がある故の」
玉楊が床几に腰掛けるのを待ってから腰かけ、改めて頭を低める。
「大嬢、ご無沙汰しておりました。何かご不自由はございませんか?」
「見ての通り、なかなか気楽に暮らしておるよ。桃果殿様はご親切で、かたじけなくもこの玉楊を実の娘と思うと言うてくださるしな。強いて挙げるなら、何もすることが無いのが、ときおり辛いかのう――」
玉楊は目を細めて微笑した。
蘭涼ははっと胸を衝かれた。
目の前の繊細な美貌を備えたうら若い貴女が、まるで千年の生に飽いた人ならぬ何かのように見えたのだ。
――大嬢は生きることに飽いていらっしゃるようだ。
「大嬢――」
貴女さまは本当にこの場所でお幸せなのですか?
喉元までそんな疑問が出かかったとき、紫檀の扉が外から叩かれた。
「大嬢、お客人がお見えです」
「通せ」
扉が外から音もなく開く。
そして思いもかけない声が響いた。
「失礼いたします新内侍さま。紅梅殿の判官、ただいま参りました!」
やたらと元気で歯切れのよい――明らかに海南訛りの――きびきびした挨拶とともに入ってきたのは、袖のゆったりとした白い上衣と薄紅色の裳という紅梅殿の官服姿の若い――蘭涼と同年配の女官だった。
ふっくらとした朱唇と濃い睫を備えた陽性の美貌の主計官の名を、蘭涼は勿論よく知っていた。
燕児たちが腐すところの「成り上がりの判官さま」――紅梅殿の三等官たる主計判官の趙雪衣である。
蘭涼は愕いていた。
この主計官は、リュザンベール人の正后様がやってきた当初は強硬な反リュザンベール派で、石楠花殿さま支持派の急先鋒と思われていたが、ここ半年ですっかり立ち位置を変え、今や完全に親リュザンベール派になっているはずだ。
それがなぜこんなところに来るのだ?
「おお、来たか雪衣。急に呼びつけてすまんの」
蘭涼の驚愕と戸惑いにかまわず、玉楊が意外なほど無造作な、ごく親しい者相手の口調で応じた。
「新内侍様のお召しとあればいつでも参じますとも。お変わりありませんか?」
「見ての通りだ。そなたもかけろ」
「ありがとうございます。あ、斑竹房どの、御久しゅう!」
美貌の主計官が愛想よく笑って頭を下げてくる。
いろいろ派手な噂のわりに、意外と普通の礼儀は弁えているようだ。
蘭涼も慌てて礼を返した。
「あ、ああ。紅梅殿の判官どのも、お変わりなくお過ごしか?」
「ええ、この通り。斑竹房どのはご災難でしたね」
「……蘭涼に何かあったのか?」
「大嬢、お気になさらず」
蘭涼は慌てて口を挟み、繊細な気遣いに欠ける主計官をきっと睨みつけた。「雲居の御方に下々の些事をお聞かせなさるのはいかがかと思うぞ?」
「そなたの災難は些事とはいえん」と、玉楊が眉を吊り上げる。「そなたはこの玉楊の同族――幼いころには姐姐、妹妹と呼び合った仲ではないか」
「身分を弁えぬ童の頃の話ですよ。どうかお忘れください」
「そなたが告げぬならば雪衣に訊くまでよ。これに何があったのだ?」
「実はですね――」
「――やめい紅梅殿の!」
蘭涼は思わず声を荒げた。
そのとき、またしても扉が叩かれ、女嬬が茶菓を満載した盆を運んできた。
興味津々の面持ちで蘭涼を一瞥し、去り際にちらっと雪衣も見る。
忌々しい主計判官は平然と笑い返していた。
どこまでも肝の太い女だ。