第三章 籠の中の翡翠 1
三日後の午後である。
務めを終えた蘭涼は白梅殿の奥殿の一画の自室で、部屋付きの女嬬たち三人を総動員して身支度に勤しんでいた。
緑の上衣と白い裳という官服はいつも通りだが、帯や装身具を替えれば相当に華やかになる。
「蘭涼小姐、こんな風におめかしなさるのは久しぶりでございますねえ」
燕児が嬉しそうに言いながら、銀糸で刺繍を施した幅広の白繻子の帯を凝った形に結んでくれる。
「お髪はどうなさいます? どんな飾りにいたしましょう?」
「真珠にしましょう。以前、大嬢から下賜された真珠で拵えた簪があったでしょう」
告げるなり、燕児はぴくりとこめかみを引きつらせた。
「――今日のお招きは前の石楠花殿さまですので?」
「ええ。珍しいお茶が手に入ったから飲みにこないかと」
鏡台の前にかがんで、白磁の小皿に白粉を溶きながら応じると、燕児が刺々しい声で咎めてきた。
「小姐、たびたび申し上げておりますが、すでに時流から外れたお方にお仕えして何になります?」
「そんなことを言ったって大嬢は同族なのだから」
「遠縁も遠縁でございますよ! あちらのお家のお引き立てで北院にお入りになったわけでもなし、今さら忠義を尽くしたところでなんの得があります?」
燕児が眉を吊り上げて言うと、他の二人も一斉に頷いた。
「ねえ小姐、今お付き合いなさるなら紅梅殿の判官さまですよ!」と、燕児が白い寒冷紗でできた大きな牡丹の髪飾りを取り出しながら得々と言いつのる。「勿論、あちらはもともと地方の商家の生まれと聞きますし、本当なら小姐がお付き合いするような身分の婢ではありませんけれど、今は飛ぶ鳥落とす勢いですからね」
「そういえば、あの成り上がりの判官さま、秋の舞踏会ではまるで官妓みたいにリュザンベール風の衣装を着て左宰相公の踊りのお相手を務めるのだとか!」と、若い女嬬の一人が怖ろしげに言えば、もう一人が大仰にブルブルと震えてみせた。
「そんな恥知らずな真似、まともな良家の小姐ではできるはずもありません。だからこその御出世なのでしょうけれど――」
「そうそう、だからこその御出世なのですよ!」と、燕児が蘭涼の後頭部に花飾りをあてがいながら言い切る。「ですからね小姐、そんな卑しい婢のお相手なんかお嫌でしょうが、ここはひとつグーっと堪えて、お近づきになれるよう立ち回りなさいませ。ね?」
「――燕児」
蘭涼は思わず呼んだ。
今話題に上がっている「紅梅殿の判官」――公文書と並ぶ二大実務機関である北院主計所の三等官を務める趙雪衣を、蘭涼は嫌いではなかった。
かつては同じ北院の若手の出世頭と並び称されながら今やすっかり水をあけられたことに惨めさこそ覚えはすれ、こんな侮辱を聞き流して笑えるほどには嫌いではない。
――あの主計官は私以上の努力をしているはずだ。
「どうなさいまして?」
女嬬は蘭涼が苛立っていることに全く気付いていないようだった。
蘭涼は怒鳴るのを諦めた。
財産はないが名望はある蘭涼の生家は躾に厳しかった。
召使には優しくしろ、決して声は荒げるなと子供のころから叩きこまれているのだ。
「その花飾りはやめて。やはり真珠にして」
どうにかそれだけ告げると、女嬬は大仰に顔をしかめ、「仕方がありませんねえ」と簪を捜しにかかった。
身支度を終えた蘭涼は、「ぜひともお供を」と詰め寄る燕児を押しとどめて一人で白梅殿を出た。
石畳の前庭をよぎり、内宮妓官が一人で護る北院の表門を出て、右手の高台の上の東院へと向かう。
急な石段を登った先の朱色の柱の四脚門――東院の表門たる「桃果門」の前にも二人の妓官がいた。
一方は蕎紫水だ。
「おや斑竹房さま!」
紫水は十年来の旧友にあったみたいな表情で笑った。
「今日は美々しい装いですな。東院にはどのようなご用件で?」
「いつもと同じく、前の石楠花殿さまのお部屋にご挨拶を」
「何かお持ちの品は?」
「ありません」
「煙草はご法度となりました。持ち込みはありませんか?」
「この通り手ぶらですとも」
たっぷりとした袖の中まで確かめられてから中門を抜ければ、目の前に、青々とした葉を茂らせる桃の古木が見える。
ここは東院桃果殿――当代国王の生母たる王太后様の住まう御殿だ。
白砂を敷いた前庭をサクサクと踏み、古木の木漏れ日の下を通って、御殿の廊から下る三段の階の下から呼ばわる。
「申し桃果殿の方々。新内侍様のお召しにより、白梅殿の者が参りました」
すると、すぐさま御殿の奥から衣擦れの音が響いて、桃果殿の禁色たる深い紅色の裳衣をまとった年配の近侍が滑り出来た。
「おお、これは斑竹房の」と、顔見知りの近侍は愛想よく笑った。「上がられよ。翡翠さまがお待ちかねじゃ」
蘭涼の心の主君たる前の石楠花殿さまは、今はこの東院桃果殿に部屋を与えられて、奥仕えの内侍として務めている。
主君はこの御殿では「翡翠さま」と綽名されているようだった。
名の由来は蘭涼には簡単に察しがついた。
――大嬢は幼いころから翠のお衣装がお好きだったからな。
内侍として東院に入る元・貴妃というのはそう珍しくもないが、通常、それは仕えた国王が没した後、寡婦となってからのことだ。喪服の白衣をまとわない新内侍が「翡翠さま」と呼ばれていることが揶揄ではなければいいが――と、蘭涼は内心密かに祈った。
あまりにも多くを失くしてしまった今日この頃である。
せめてあの方だけは心安らかに暮らしていて貰いたかった。