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第二章 北の恋歌 3

 蘭涼自慢の流麗な筆跡で韻文に書き直した『新波薩三姫伝』は大いに好評を博した。


「斑竹房どの、すばらしい御作じゃな!」と、金蝉が涙ぐみながら絶賛し、必ずや最高級の装丁で製本すると約束してくれた。

「もしよろしければもう二、三部書いていただけるかの? われらの酒席の余興のような歌がこれほど雅な詩歌となるなど、この橘庭夢にも思わなんだ。折角だから美々しい仕上がりにして桃果殿さまや蘭渓道院(らんけいどういん)さまにも献上したいのじゃ」

「――それは、書き手の署名入りで?」

 恐る恐る訊ねると、金蝉は表情を曇らせた。

「むろんそのつもりじゃったが――御名を出したら何か不都合がおありか?」

「いえ、もちろん何も」

 うろたえ気味に答えながら、蘭涼は目の前がぱっと明るくなるのを感じた。


 

 ――そうだ。何も官吏としての出世だけが生きる道ではないんだ。私は今まで研鑽を重ねて美しい字が書けるのだし、旧い記録を韻文に書き直すことだってできるのだ。



                ◆



 蘭涼が二部目の写本を仕上げた翌日、ようやく拘禁が解かれた。

「まことに済まなかったの。ひとつ湯あみでもしてさっぱりしてからお戻りくだされ」

 そう告げに来た金蝉は沈んだ様子だった。いつもは朗らかで気さくな老女が、心なし肩を落として背を丸めている。


 

 ――橘庭どの、何かあったのですか?



 喉元まで出かかったそんな疑問を、蘭涼は寸前で飲んだ。

 拘禁が解かれたということは、例の遜子蘇絡みで取り調べに何らかの進展があったということだ。後宮内での立身を志すなら、知らずに済むことは知らないでいるのがいい。



 ――私は暗がりの権謀術策には関わりたくない。正面から筆で勝負したいんだ。



 そこまで考えたところで、蘭涼は初めて、自分が新たな希望を抱いていることに気付いた。

「橘庭どの――」

「何かの?」

「例のあの『三姫伝』ですが、よろしければ三部目を筆写いたしましょうか? 桃果殿さまと蘭渓道院さまに献上なさるなら、お手元も一部に加えて、もう二部必要でしょう?」

「あ、ああ。それはかたじけない」

 金蝉はぎこちない笑顔で応じ、しばらく躊躇ってから、

「――蘭渓道院さまへのご献上は、あるいは難しいかもしれん」

 と、小声で言い添えた。

 なぜですか――と、蘭涼は敢えて訊ねなかった。

 知らずに済むことは知らないほうがいいのだ。



 湯殿で体を清め、久々に髪を洗う。

 十日のあいだに何となくなじんでしまった客殿の奥の間で濡れ髪を乾かしていると、狭い中庭のほうから郭彩濵が声をかけてきた。

「斑竹房さま、お部屋から女嬬どのがお見えですよ!」

「通しなさい」

 まだ生乾きの髪を裁いたまま廊へ出るなり、

「まああ小姐(おじょうさま)、何というお姿で!」

 五十年配の小太りの女嬬が甲高い声をあげながら走り寄ってきた。

燕児(えんじ)、さすがにそろそろ小姐はやめなさい」

「いいえ、いいえ、わたくしにとってはいつまでも可愛い小姐ですとも。さあさ、お部屋へ戻りましょう。ああ、その前のお(ぐし)をまとめましょうね――」

 燕児が泣きながら奥の間へと上がり込んでくる。

 蘭涼は諦めて鏡台の前に坐った。



「……――そういえば小姐、紅花殿さまのこと、お聞き及びですか?」

 蘭涼の髪を梳かしながら燕児がひそひそ声で訊ねてきた。

「紅花殿さま?」

 蘭涼は思わず問い返した。

「典衣所の督がどうかなさったの?」

「それがね、あのお方、毒を()まれてご自害なさったのですって」

「え、毒?」

 蘭涼はぎょっとした。

「後宮内で毒物を手に入れたの? 西院に男御子がいらせられる今、妓官たちが鵜の目鷹の目で見張っているのに」

「それはですね小姐――」と、女嬬は得意そうに言った。「煙草ってご存じですか?」

「ええ。あのリュザンベール渡りの新習俗でしょう? 乾かした葉を竹の筒に詰めて火をつけて煙を吸うと聞いたけれど。それがどうかしたの?」

「その煙草がですね、実は猛毒だったんだそうでございますよ! 西院に入られた今の杏樹庭さまが――昔の外宮薬師の頭領さまがそう話していらっしゃいました。紅花殿さまはその煙草でご自害なされたのです。そのうえ、外宮の牢屋敷に捕まっていた囚人も同じ毒で殺されたのだとか!」

 燕児が興奮しきった声で言う。

「それって――」


 どちらが先だったの?


 心に浮かんだそんな問いを、蘭涼は声には出さなかった。


 明らかにこれは知るべきではない何か――暗がりで蠢く策謀に属する何かだ。


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