第十一章 密書 4
タグに「恋愛」入れてもいいかな……
阿爾婁陀は笑いながら鏡台へにじりよると、傍にある小さな漆塗りの箱をあけて柔らかな紙片をとってくれた。
「どうぞ羽虫の死骸をこちらへ」
口調が明らかに面白がっている。
蘭涼は屈辱を感じた。
「かたじけない」
わざと堅苦しく応えて紙を受け取り、目元から頬を拭うと、紅白粉が剥げて紙が汚れてしまった。慌てて四つに折りたたんで、いつも頼りになる広い袖のなかに隠そうとしたとき、男の手がにゅっと伸びて、汚れた紙をひょいと摘んでいった。
「な、なにをする!?」
「いえね、私とここで夕方まで睦み合っていたように見せかけたいのでしょう? ならば枕紙のひとつやふたつ転がっておりませんと」
と、言いながら紙片を丸めてその辺にぽいと転がす。
言葉の意味を理解するなり、蘭涼は耳まで赤くなった。
阿爾婁陀がほっとしたように笑う。
「あ、よかった、さすがに意味はお分かりなんですね? そこまで箱入りだったらどうしようかと思いました」
「……そなた、私を馬鹿にしていないか?」
「いやそんな、とんでもない。愕いているだけです。しかし、一体なんでまたこんな馬鹿な真似をなさったんです?」
「こんなとは?」
「ですから、あなたみたいな方が男遊びに馴れているふりをすることですよ。院主様の仰せを断ってご機嫌を損ねないためってだけなら、正直感心しませんよ?」
若い男が口煩い父親みたいにがみがみ言ってくる。
蘭涼は口惜しさを感じた。
まるっきりこっちを世間知らず扱いしているようだが、阿爾婁陀だってこの道院に閉じこもりきりなら似たようなものではないか。
――自信を持つんだ紅蘭涼。私は員外とはいえ白梅殿の判官――上から数えた方が早いほど高位の女官なんだ。
「まあそう言うな。こちらにもいろいろ事情があるのだ」
今の状況でできるかぎりの威厳をかき集めて告げると、
「――そのいろいろを、教えてくださる気は?」
阿爾婁陀が意外なほど真摯な表情で訊ねてきた。
蘭涼は一瞬ためらってから訊ね返した。
「そなた、この院の首座導師さまの御出自を知っているか?」
途端に阿爾婁陀の顔色が変わった。
やはり知っていたらしい。
蘭涼は包み隠さずすべてを説明することに決めた。
「なるほどーー」
今に至るまでの事情を聞き終えた阿爾婁陀はつくづく感心したように蘭涼を眺めた。
「斑竹房さま、何というか、廉吏でございますねえ」
「? そうか? あれほど愚かしい企てを聞いてしまったのだ。どうあっても防がねばと思うのは官として当然だろう」
「当然とお思いなのが、廉直なのですよ。では、あなたさまが今日の夕までごゆるりとこの堂でお過ごしになれば、密書はことなく後宮に着き、当代の柘榴庭どののおいでになる蘭陽に早馬が馳せると、そういう算段なのですね?」
「ああ。そういう算段だ。協力してくれるか?」
「それはむろん。私は首座さまの弟子ですから、あの方を第一に考えます」
「つまり、首座導師さまは、この謀に連座はなさっていないのだな?」
「当然ですよ。あの方が何をお望みであれ、今徒にリュザンベール使節を殺害することが双樹下の破滅につながることをお分かりにならないほど愚かではありません」
阿爾婁陀ははっきりと言った。
蘭涼は少し考えてから訊ねた。
「では北の院の監院どのは?」
阿爾婁陀の顔が曇る。
「う――ん、正直あちらはよく分からないのですよねえ。今回の謀はことなく収まりそうなのですから、焦らず気長に行きましょうよ。何か分かったらおいおい御知らせしますよ」
「そうして貰えると助かる。どうにかして柘榴庭の配下に伝えてくれ」
「洛東巡邏隊ですね? 心得ました」
阿爾婁陀が気心の知れた下僚みたいに頷いた。
蘭涼は不意に全身の力がどっと抜けていくのを感じた。
--ああ良かった。私は独りじゃないんだ。ここにも味方が一人いた。男だって獣じゃない。話せば分かることもあるんだ。
心の底からしみじみとした安堵が湧き上がってくる。同時に眦が熱くなった。
安堵のための涙を袖口で拭っていると、阿爾婁陀がひどく慌てた様子で壁際へ後ずさった。
「あ、やはり怖いですか? 私、外にいたほうが?」
「なにを言う。そなたが怖いものか」
蘭涼は呆れぎみに応じた。「余計な気を使わず茶でも淹れなさい。折角茶道具があるのだから」
「ああ、そうでした。では一服差し上げましょう」
阿爾婁陀は嬉しそうに笑って応じると、祭壇の油火を紙縒りに移して、水がめの後ろにひっそりと置かれていた焜炉の炭に点じた。
柄杓に水を掬って鉄瓶に注ぐ仕草がじつに流麗だった。
濃い睫を伏せた横顔に不思議な静謐さがある。
「美しい所作だな」
蘭涼が思わず呟くと、阿爾婁陀は愕いたように顔を向け、目を細めてはにかんだように笑った。
「数少ない取柄です」
その声には静かな諦めと自嘲があった。
蘭涼は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。