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第二章 北の恋歌 1

 蘭涼が拘禁された先は橘庭の客殿だった。

 二間続きの狭い板の間で、厠もついている。見張りとして常に妓官が一人傍について、女嬬のこなすような用事をすべて果たしてくれた。



 要求した書物は二日目の朝方、錫の食器に盛られた朝餉の粥とともに運ばれてきた。

 色の褪めた朱色の表紙の冊子で、真ん中の黄ばんだ白い短冊に、あまり巧くない筆跡で「波薩三姫伝」と書かれている。


波薩(はさつ)――ああ、カジャールか」


 双樹下の文献ではたいてい「北の野蛮人」を意味する「北夷(ほくてき)」の字をあてられるカジャール族の音写だ。二日ぶりに手にする書物の嬉しさに思わず声に出すと、卓の上に膳を調えていた妓官が嬉しそうな顔をした。

「お分かりになりますか!」

「もちろんだよ。これは――もしかして、カジャール族の伝承を記した書物なの?」

「ええ、そうなのです。カジャール三氏族に伝わる有名な古い歌を、数代前の橘庭の督が自ら書き記したと聞きます。それで、その――」と、見るからにカジャール系の妓官は口ごもり、ややあって遠慮がちに続けた。

「斑竹房さまは北院きってのご能筆と聞き及んでおります。もしよろしければ、その書物に記された歌を、正しい韻文の形に直して清書してはいただけまいか?」

「それは勿論、喜んで」

 蘭涼は即答した。

 その手の作業は得意中の得意だ。

 何であれ何かすることがあるのは有難いかぎりだ。




 朝餉が済むとすぐ、蘭涼は『波薩三姫伝』を一読することにした。


 さして巧くはないものの丁寧な筆跡で書かれた散文である。地名や人名に音写が多すぎて、ところどころ意味が取りにくい。

「妓官、できればこの書物の元になった歌を教えてくれないかな?」


 そう頼んだ日の夕刻、金蝉と他二人の妓官が、なぜか煌びやかな盛装で、それぞれ腕に弦楽器を抱えて客殿へとやってきた。


「橘庭どの、その楽器は一体」

「ご存じないか? カジャールの馬頭琴じゃ」と、美麗な老女は嬉しそうに応じた。「斑竹房どのが我らの歌を御所望と聞いての、これはひとつ最上のものをお聞かせしなければと」

「斑竹房さま、カジャール三姫の伝承歌は三通りあるのです」と、お供の妓官の一人が口を挟めば、もう一人が頷きながら続ける。「わたくしども郭氏の属するゲレルト氏族の歌、そちらの蕎氏の属するアガール氏族の歌、そして督の宋氏の属するサルヒ氏族の歌です」

 楽器を抱えた三人の妓官は妙にぎらぎらした目つきで熱を込めて話した。

「そ、そうなの」

 蘭涼は気おされながらどうにか相槌を打った。「その三つは、すべて違うのですか?」

「少しづつ違うのじゃ」と、金蝉が重々しく結び、きっと眉を吊り上げて左右の妓官を睨んだ。「歌い始めは当然この督からでよかろうな?」

「――あいにくながら督よ、この場は私的な集いでございますれば、御命令には従いかねる」と、郭氏の妓官がすごめば、

「然様。順は当然、賽子(さいころ)で決めるべきでありましょう」と、蕎氏の妓官が続ける。

 金蝉は心底口惜しそうに唸ったが、じきにため息をついて頷いた。

「致し方がない。――斑竹房どの、お手数をかけるが、ちと賽を振ってくれんかのう?」

 ひょいと手渡された骨製の賽子はやたらと使い込まれた風情だった。

 非番の妓官どもが暇なとき何をしているのか――蘭涼は深くは考えないことにした。すごろくだ。きっとすごろくだ。博打ではないはずだ。


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