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第十一章 密書 3

 青光りのする沓脱石は中央がへこんでいた。

 刺繍を施した布靴を脱いで廂の下の廊へとあがる。


 両開きの朱塗りの扉の上半分に格子が嵌まって、内側から油紙が貼られているようだった。

 扉を押すと滑るように開いた。


 黒檀製の四脚の壇上に一対の白磁の花器が据えられ、淡黄色の小花を手毬のように盛り上げた乳花の枝が活けてあった。真ん中に蓮を象った小皿があって油火が灯っている。

 壇の後ろに龕があり、一尺〈*約30cm〉ほどの高さの乳白色の媽祖像が収められていた。

 その祭壇の前に、毛足の長い西域風の絨毯が敷いてある。

 右手の隅には青磁の水がめがあり、左手には鏡台があった。

 蘭涼は祭壇の前に跪くと、両手の指をきつく組み合わせて小さな媽祖像に祈った。

 ――何を?

 決まっている。

 密書がことなく後宮に至って、最悪の事態が回避されることを、だ。


 --リュザンベール人と戦ったところで双樹下(われわれ)は決して勝てない。私は正しいことをしている。この大義を前にすれば、私個人の小事なぞとるに足らないことだ……



 厭だ、厭だと心の奥で何かが叫んでいた。

 その叫びを必死に無視して、ひたすらに密書の無事だけを考えようとしていたとき、音もなく背後の扉が開いて外の光が射した。


「これは斑竹房さま。熱心に、何をお祈りで?」


 背後から甘ったるい男の声がする。


 振り仰ぐと阿爾婁陀が立っていた。

 取っ手付きの縦長の茶箱を携えている。


「――知賓どのこそ、何をなさりに?」

 どうにかこうにか絞り出した声は怖ろしく掠れていた。



 男が眉をあげる。

「勿論香を供えに。―-本日はそのような御趣向で?」

「そのような、とは?」

 男が中へと入ってきた。

 扉が閉まると光が消え、今しがたまで揺らいでいた油火の穂がまっすぐに戻った。

 薄暗い堂内を巨きな――恐ろしく巨きく思われる躰が進んでくる。

 蘭涼がびくりと首を竦めると、阿爾婁陀は呆れたように嗤った。

「今日のあなたさまの役どころは、悪漢にかどわかされて辱められる良家の箱入り娘といったところですか? 実に真に迫っておりますねえ」

 男が祭壇の前に跪き、茶箱の蓋を滑らせて開けると、一番上の段から青磁の香炉を取り出して明かり皿の隣に置いた。

 白檀と麝香と竜涎香だ。濃厚すぎる癖のある薫に微かな目眩を感じる。

「この香には少しばかり麻の種も入っておりましてね――」

 阿爾婁陀が両手を組み合わせて祈りながら呟いた。

「酔えばひと時この汚らわしい此岸を忘れられます」

 そう言いながら小さな媽祖像を睨みつける男の横顔には混じりけなしの怒りが籠っていた。


 蘭涼は確信した。


 ――この男は院主様のやり方に反発している。


 ならば謀には関わっていないかもしれない。


 --もしそうなら話せばわかる。私がどうしてこんな振る舞いをしているのか、説明すれば分かってもらえるかもしれない。


 蘭涼は歓喜した。


「知賓どの――」

 私は本当は、と続けようとしたとき、阿爾婁陀が振り返り、妙に真面目腐った表情で言った。

「ええ、勿論分かっておりますよ?」

「え、何を?」

「何をって、それは勿論」と、男が不意に筒型の黒い頭巾をはずした。

 その下から現れたのは、双樹下人には珍しい縮れたとび色の髪だった。

 西隣の香波にはいそうな髪だ。

 あるいはリュザンベールとの混血なのだろうか?

「珍しいですか? お望みならお好きにお触れください。あなたのお相手は悪くない。これほどお若くお美しい方に触れるのは久しぶりだ」

 阿爾婁陀が白い歯をのぞかせて作り笑いを浮かべたかと思うと、不意に手を伸ばし、蘭涼の顎をつかんで強引に上向かせるなり、間髪入れずに口づけてきた。


 蘭涼は死体みたいに全身を強張らせていた。



 ――駄目だ。応えなければ。こんな振る舞いには馴れているのだとこの男に思わせなければ。



 意思の力で体を動かそうとしたとき、不意に、背にまわされた腕の力が緩んだかと思うと、後頭部から掌がはずれた。

 

 男の体が離れてゆく。


 ――露見したのだ。



 この男は敵なのか?

 それとも味方なのか?



 蘭涼は混乱していた。

 頭のなかが真っ白で冷静な判断ができない。


「知賓どの、私は――」

 何を告げるともつかないままどうにかそれだけ言う。

 男は思いがけない顔をしていた。

 混じりけなしの驚きの顔だ。

「――どうしてお泣きになるので?」

 

「私は、泣いてなど」

 答えてしまってから初めて、蘭涼は自分の頬を涙が伝っていることに気付いた。

 慌てて右手の拳でごしごしと拭う。

「こ、これは、あれです、その、目に大きな羽虫が入ったのです!」

 必死で言い募るなり、阿爾婁陀はきょとんとしたかと思うと、不意に背を折り曲げ、広い肩を震わせて小刻みに震え始めた。

「え、あ、知賓どの? どこか痛むのか?」

 慌ててにじり寄ると、阿爾婁陀が顔をあげた。

 眦に涙の粒を浮かべ、異様に張りつめた表情をしている。

 蘭涼は何事かと身構えた。

 次の瞬間、阿爾婁陀は全身を震わせ、堪えかねたように声を立てて笑い始めた。

「む、虫ですか! そうですか! それは大変ですねえ! ――ああどうぞ、お気になさらず、ゆっくり目の虫をお流しになってください」

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