第十一章 密書 2
俗人らしい黒装束の婢の手で運ばれてきた食事は手の込んだ精進料理だった。
蘭涼と黛玉は、わざと外へと聞こえるよう、ことさら声高に雑談を交わしながら食事を進めつつ、秘かに筆をうごかして密書をしたためた。宛先は当然玉楊だ。誰も中身を検めないことを前提として、報せたいことをありのままに書く。ことは一刻を争うのだ。
墨が乾くのを待って折り畳み、紙の合わせ目に芙蓉を象った円い印を押す。
鮮やかな朱色の割印が押された瞬間、蘭涼はあまりの安堵に全身の力がどっと抜けていくのを感じた。
芙蓉印を押された書が先の石楠花殿の元へ届けられるのだ。
誰も無理やり検めはしないだろう。
「この印は西院を出るとき主上が手ずからお渡しくださったものでのう」と、黛玉が細い象牙の印章を掌の上にのせて懐かしげに言った。「方形の官印はやれんが、私用のためのこの印はずっと持っておれと。生家へ戻って不自由があったら、いつでも朕に報せろと――」
黛玉はそこまで口にすると、堪えかねたように小さく鼻を鳴らし、眦を袖で抑えた。
密書は道院らしい華奢な白木の文箱に納められ、例の竹簡を包んできた黄の地に青い花鳥紋を散らしたタゴール更紗の布で包まれた。
「さてこれでよい。誰かあるか?」
黛玉が物を命じ慣れた貴人の口調で呼ばわると、扉が外から開いて杜玲林が入ってきた。
「玲林、この書を斑竹房の従者に託して、すぐに後宮へ届けさせよ。この盧遮那から――いや、前の芙蓉殿から、前の石楠花殿たる東院の新内侍宛だ」
「承りました」
玲林は恭しく応えてから、打って変わって冷ややかな口調で蘭涼に訊ねた。
「斑竹房どの、そろそろ滝上へ赴かれるか?」
その声音は硬く、視線からは侮蔑が感じられた。
蘭涼は胸を刺されるような痛みを感じた。
――この内宮妓官は、私が褒美に投げ与えられたあの男を弄ぶのだと誤解しているらしい。
滝上の堂というのは、この道院内では、おそらく聞くだけで何を意味するか分かる場所なのだろう。
――まさか盧遮那さまも同じ誤解を?
ハッとして目を向けると、黛玉は幸い何も知らないようで、
「滝上というと媽祖小堂だな? 何か供えるものがあるのか?」
と、無邪気そのものの様子で訊ねてきた。
「ええ、桃果殿さまから頼まれごとをしておりまして」
蘭涼は何とか笑顔らしきものを取り繕って応えた。
「――なあ斑竹房どの、年長者としてこれだけは言っておきたのだが」
黛玉の房を辞して主屋の面へと向かいながら、前を行く玲林が強張った声で言った。
「内宮女官とてうら若い人の身、ときには人膚が恋しくなる気持ちは分かる。そういう点、外出の多いわれら妓官なども、外宮仕えの若い時分などそう褒められた振る舞いをするでもないしな。しかし、おのれの愉楽の隠れ蓑に貴妃さまがたを利用するのはあまりに不敬ではないか?」
「――機に乗じているだけですよ」
蘭涼はどうにかそれだけ応えた。
気が付かないうちに、絹の下沓に包まれたつま先が氷のように冷たくなっていた。
崔芳淳は表の控えの間で女導士たち相手になぜか礼儀作法の指南をしていた。
「芳淳どの、前の芙蓉殿さまから大嬢あてに急ぎの文使いを言付かりました。わたくしはこのあと所用がございますので、御面倒ながら、一足お先に後宮へお戻りいただけますか?」
「然様か」
芳淳は相変わらず泰然自若と応え、文箱を開いて芙蓉印を検めると、慣れた手つきで軽く頭の上に押し頂いてから、膝を揃えて滑らかな動きで頭を低めた。
「しかと承り申した」
「輿はこちらでお支度いたす。中門までともにおいでくだされ」と、玲林が恭しく告げた。
蘭涼と芳淳は中門で供華衆の担う籠に乗り込んだ。
「ご祐筆どののお籠は南門へ。取り急ぎ後宮へお戻りになるため、外で輿を雇って供華衆が護衛せよ」
「仰せのままに都管さま。いまひとつのお籠は?」
「そっちは滝上だ。午後中ゆっくりお籠りなさるそうだ」
玲林が冷ややかに応えるなり、黒装束の男たちが鼻白むのが分かった。
蘭涼は泣き叫びたくなる心を必死で抑えた。
--仕方がない。仕方がないんだ。この〈ご褒美〉を拒んだら私の本当の目的が露見してしまうかもしれない。リュザンベール使節の爆殺を何としても防ぐことに比べたら、私の名誉なんか小さな問題だ。
必死で自分にそう言い聞かせながら籠に乗り込む。
乗り物は否応もなく進んでいった。
じきに籠が止ったのは、山腹を巡る山路が北側に差し掛かるあたりだった。
左手の路傍に細葉榕の古木がある。
「女官どの、こちらでございます」
籠を担ってきた供華衆の一方が事務的な丁重さで促して古木の左手へと蘭涼を導いていく。そこから石段が始まっていた。
石段を登っていると、左手からしきりと瀬音が聞こえてきた。
ごく近くを渓流が流れているらしい。
登るにつれて大きくなる。きっと滝があるのだ。
石段を登り切った先は、木立に囲まれた円形の広場だった。真ん中に赤茶の瓦屋根を備えた小ぶりな六角堂がある。
垂木の端を金泥で彩った小型ながらも贅沢で美しい堂だ。
軒に黒木の額が架かって、鈍い金色の四字が刻まれていた。
――媽祖小堂
「どうぞお入りなされ」と、影のように付き従ってきた供華衆が促す。「じきに知賓堂から香華が運ばれてきますゆえ」
そう告げる供華衆の声は低くかすれていた。
怒りと軽蔑を必死で押し隠しているような声だ。
蘭涼はふと思った。
--この供華衆たちは、御座所の院主様のやり方を苦々しく思っているのかもしれない。
「東崗の者よ――」
痛みそうな歯を下の先でそろそろと突くように訊ねてみる。
「そなたら、御座所のやりように不服が?」
「――いいえ斑竹房さま、滅相もない」
供華衆たちはこわばった声で応じると、それ以上何も言いたくないというかのように直角に腰を折った。
「どうぞお入りを」
蘭涼は入るしかなかった。