第十章 密命再び 4
「どうだ斑竹房。愕いたか?」
「はい愕きました――」
あまりの愚かさ加減に、と蘭涼は心中でだけ付け加えた。
呆然自失としながらも焦りが湧き上がってくる。
――正直なところ、蘭涼は今の今まで自分自身の立ち位置について多少迷っていた。
もしも蘭渓道院の企てに勝算がありそうだったら、新王即位ののちに大嬢が正后として返り咲くことを条件にこちらにも協力しておいてもいいかな――と、心の片隅で密かに思い続けていたのだ。
しかし、これは駄目だ。
論外だ。
蘭渓道院に任せておいたら、軍事的に双樹下を圧倒しているらしいリュザンベールからの一大報復を受けて完全に支配下におかれる未来しか見えない。
今この瞬間、蘭涼は自分が何をすべきかを明瞭に悟った。
今聞いた驚愕の事実をできるかぎり早く桃果殿さまに報告するのだ。
中書令李家という生家を背負った桃果殿が完全に無私無欲だとまでは妄信できないが、少なくとも王太后様には良識と常識というものがある。
――蘭陽には幸い柘榴庭が向かっている。報せればきっと何とかしてくれるはずだ。
「院主様、わたくしそろそろ――」
急ぎの用のため退出したいんですが、と続けようとしたとき、院主が心得顔で笑って頷いた。
「おお、褒美の催促か? では滝上の堂へ赴け。そこでゆるりと昼餉でも食うといい。知賓に運ばせる故な」
阿爾婁陀なんかどうでもいいです! と、蘭涼は内心で叫んだ。
どう考えても今はそれどころではない。
しかし、ここで断ったら間諜だと露見しそうだ。
――大丈夫だ紅蘭涼、と蘭涼は必死で自分に言い聞かせた。
京から蘭陽までは海南街道を四駅二十四里。
遠い昔に任官試験のために丸暗記した知識によれば街道を進む歩兵の進軍速度は一日六里のはずだから、今日発ったなら着くのは四日後だ。
公用の早馬で後を追わせれば明日でも十分間に合うはずだ。
そこまで考えたところで蘭涼はハッとした。
月牙はいつ京を発ったのだ?
--ええと、四日前まではこちらにいたのだから、一番早くても三日前の出立だとして――……
――その場合、早馬を使っても、もしかして結構ぎりぎり?
蘭涼は蒼褪めた。
兵馬のことは専門外だからそもそもよく分からないのだ。
「――斑竹房?」
表情の変化に気付いたのか、院主が訝しそうに呼ぶ。「いかがいたした? なんぞ気がかりがあるのか?」
「いえ、その――」
蘭涼が口ごもったとき、扉の外から柔らかな女の声が響いた。
「院主さま、お茶をお持ちいたした」
驚くべきことに前の芙蓉殿たる李黛玉の声だった。
左手の下座に坐していた近侍の女導士が慌てて立ち上がり、扉を開けて盆を受け取りながら泣き出しそうな声を出す。
「盧遮那さま、前の貴妃さまともあろうお方が、何もこのようなことを――」
「なに、これも修行よ」と、黛玉が生真面目な顔で応じる。蘭涼はつい二日前に見た玉楊の顔を思い出した。
院主が不快そうに眉をあげる。
「なんだ黛玉、そなた手ずから入れろなどとは命じておらんぞ? 用がないなら房へ戻っておれ」
つけつけと言われるなり、黛玉は怯えた表情を浮かべたが、すぐに唇をきつく結んで首を横に振った。
「畏れながら院主さま、この盧遮那も、斑竹房ともう少し近しく話がしたいのだ。妹とも思った前の石楠花殿の身内となれば、私にとっても身内のようなものゆえな。玉楊の話をいろいろ聞きたい。斑竹房は夕までおるのであろう? ならば正午の斎食は私の房で振る舞いたい。なあ院主様、いいだろう? 盧遮那は寂しいのだ」
黛玉がつぶらな目をしきりと瞬かせて甘えた声を出す。
院主は鬱陶しそうに顔をしかめ、いかにも面倒そうに手をひらひらと振った。
「分かった、分かった好きにせい。そなた、もうそう稚い年頃とも言えないだろうに、いつまでも姉妹ごっこにかかずりあって、まあ罪のないことだ。――斑竹房は午後には別の用があるゆえな、斎食が済んだら滝上に送らせろよ?」
院主が蘭涼に目配せをする。
黛玉は何も気づかず――いかにもなにも気づいていないような様子で――真剣に頷いた。
「もちろんだ。いくぞ斑竹房。この頃玉楊がどうしているかゆっくり聞かせてくれ」
黛玉が蘭涼の手をとって立ち上がらせてくる。
扉を開けると外に玲林が控えていた。
「玲林、黛玉を房まで送れ!」と、室内から院主が命じた。