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第十章 密命再び 3

「――斑竹房」

 足音が遠ざかりきったところで、院主が苦々しい声で呼んだ。

「もうちっと言葉を選べ。その諸事日記とやらに何が記されているのだ?」

「この年の毎月朔日に、当時の柘榴庭が『東左京御乳母君』なる人物に五十両ずつ届けていた記録が。どうぞご上覧を」

「うむ」

 院主が曖昧に応えて竹簡を手に取り、さして熱心にでもなく目を走らせ始めた。

 あまり字を読むことが好きではないらしい。


「なるほどそのように記されているの。この巻が斑竹房に?」

「はい。――斑竹房の蔵書は、本来ならば後宮典範で後宮門外不出と定められておりますが、院主さまのおん為にと……

 敢えて語尾を濁して告げる。

「ほほう。この院主のために敢えて典範を破ったと?」

「――仰せの通りでございます」

 内心の忸怩たる思いを堪えて告げると、院主は匙一杯の甘い蜜を口に含んだようににんまりと笑った。

 心底嬉しげな、満足そうな笑いだった。

「然様か。そなたの忠誠気に入った。何か求めることはあるか?」



 ――撒き餌に獲物がかかった――と蘭涼は内心で快哉を叫んだ。



「なんだ。申してみよ。銭か? 好きに外出(そとで)をしたいか? それとも――」と、院主がにんまりと笑う。「この道院にはなかなか美しい侍童もおる。ちと齢はいっているが、修行院の知賓はどうだ? 気に入ったら好きにしてよいぞ?」

 院主がにやりと笑う。

 蘭涼はあまりのおぞましさに鳥肌が立つのを感じた。

 同時にあの胡乱な――胡乱な気がしていた若い男に同情を感じた。

 あの男はこの場所で、まるで愛玩物のように扱われているのかもしれない。地位のある相手に媚びを売るあの不快な態度は、愛でられ、支配され、飽いたら棄てられる、若さと美しさだけが取り柄の非力な女のようだったのだ。



 ――ああ、でも、あの男と密かに話ができれば、何かを聞き出せる……かもしれない。それに私欲に駆られていると思われたほうが、謀に加わるふりをするにはかえっていいかもしれない。あの男に愛欲を感じているなどと思われるのは悍ましいけれど……



 蘭涼はさまざまに考えを巡らせながら言葉を選んだ。じかに「ではあの男を」と口にするのはあまりに悍ましすぎる。


「――ではその仕舞の御褒美を」

「ほほう」と、院主がほくそ笑む。「やはりあれが気に入ったか?」

「――はい」

 蘭涼はあらゆる葛藤を飲み下して頷いた。

 院主がますますにやにやする。

「では後で良いように計らおう。ときに、例の秘事、後宮にはしかと広めていような?」

「もちろんでございます」と、蘭涼は頷いた。「ときに院主さま、この斑竹房めをお信じくださいますなら、院主さまがこの先何をお志しなのか、今少し仔細にお教えいただけますか?」

「うむ」と、院主は気楽に応えた。

「この院主のために門外不出の書籍を持ち出してきたのだからな。そなたは信じられる。では教えてやろう。我らはこの麗しき双樹下の地から法狼機(フランキ)をすべて追い、混じりけなしの双樹下の血を引く主上をふたたび玉座に着けることを望んでおる」


 我ら――と、院主は言った。

 蘭涼は秀でた記憶力でもってその言葉を脳裏に叩き込んだ。

 院主には対等な協力者がいるのだ――あるいはそちらが主導者なのかもしれない。


 考え始めると混乱してきた。



 ――謎解きは私の本領じゃない。私は記憶し、記録する者だ。見聞きしたことをみんな持ち帰って、あの小面憎い謎解き判官さまにでも頭を絞ってもらえばいい。



 蘭涼は自分にそう言い聞かせながら次の手を考えた。

「しかし院主さま、リュザンベール人を――法狼機をすべて追うとは、一体どのように?」

 訊ねると院主はまたにんまりと笑った。

「なに、容易いことよ。もうじきに海都から法狼機の使節が上洛するという話は知っているか?」


 月牙が今蘭陽まで出迎えにいっているあれである。

 蘭涼は勿論よく知っていたが、優秀な中堅官吏らしく、空気を呼んで、

「寡聞にしてよく――」

 と、言葉を濁した。

 院主が満足そうに頷く。

「後宮の壁の内に閉じこもっておると世間を知らぬままであろう。使節はもともと海都から大河を舟で遡る予定であったが、この頃河津道が不穏であるとの風説があってのう――」と、院主はいかにも得意そうに言った。


 ああ、なるほどと蘭涼は理解した。

 どうも本当に蘭渓道院が後援していたらしい反リュザンベール組織の赤心党は、無差別に無意味に行動していたわけではなく、洛東の河津道一帯がリュザンベール人には危険だという印象を植え付けるために動いていたのだろう。


「そのため陸路に変更されたのですね?」

 つい言ってしまうと院主は渋面を浮かべた。

「その通りよ。そなた賢しいのう」と、いかにも嫌そうに褒める。「海都から京まで、陸路で海南街道六十里を来る場合、必ず渡らねばならぬ橋がひとつある。どこか分かるか?」

 北小江大橋と蘭江大橋、それにたぶんあと三つくらいある気がする――と、蘭涼は心の中でだけ思った。

 しかし、院主のなかでは一か所しかないのだろう。

「イエ寡聞にしてよく」

 もうこう答えておくしかない。

 忖度というやつだ。

 院主は満足そうに頷いた。

「では教えてやろう。蘭江大橋よ」

「左様でございますか。その大橋で何を?」

「橋を爆破するのじゃ」と、院主は得意そうに言った。「使節もろともな」

 蘭涼は内心でひえええと叫んだ。



 考えうるかぎり最悪の筋立てだ。



 ――爆破してどうするつもりなんだ……!? 



 使節が爆殺されたとなったら、リュザンベール本国は大々的な報復を始めるに決まっている。

 そんなことは世間知らずの斑竹房の員外判官にだって容易く理解できる。


 

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