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第十章 密命再び 2

 籠に揺られて中門まで登ると、迎えに出てきたのは阿爾婁陀(アニルダ)ではなく杜玲林(とれいりん)だった。


 --そういえばこの都管は杜氏だ。


 一昨日聞いたあの杜氏――光祀七年の叛乱に与したという洛中杜氏なる一族とは何か関わりがあるのだろうか?

 疑わしいと思うと何から何まで疑わしくなってしまう。

「斑竹房さま、如何なされた?」

 内心の懸念が表情に出てしまったのか、玲林が訝しそうに訊ねてきた。蘭涼は慌ててごまかした。

「いえね、今日は知賓(しひん)どのはどうしたのかと思って」

「おやおや、斑竹房さまも阿爾婁陀をお気に入りか。あれは今日は南院で何やら用を命じられているらしい」

「南院というと――首座導師さまのおいでの修行院?」

「然様」

 玲林は全く動じずに答えた。


 ――この妓官はもしかしたら何も知らないのかもしれない、と蘭涼は思い直した。考えてみれば、秘事を打ち明ける前に玲林は外に出されていた。先だって金蝉が言っていたように、上つ方の命じることを命じられるままただ果たしているだけなのかもしれない。



 ――ではあの阿爾婁陀は? あの男は何をどこまで知っているのだろうか?



 物思いに耽りながら足を進めるうちに、いつのまにか細葉榕の木陰を抜け、桃果殿とよく似た御殿の前までついていた。


「ご祐筆どのは控えの間でお待ちを」と、玲林が丁寧に促す。

「うむ」

 芳淳は泰然と頷いた。


 前と同じように玲林の先導で奥の間へと導かれる。

 院主は鮮やかな山梔子色の帳を垂らした天蓋付きの椅子にかけていた。左右に三人ずつの女導士が侍るのも前回のままだが、今日は一点だけ違うところがあった。


 院主の椅子の右手にもうひとつ椅子が据えられ、袖のゆったりした白い袍をまとって黒い筒型の頭巾を被った若い――二十四、五に見える女導士が腰掛けているのだ。


 頬の線の柔らかなふっくらとした面長の輪郭と、鳩か女鹿みたいにつぶらな黒い眸を備えた、見るからに穏やかそうな面立ちをしている。

 柔らかな頬にうっすらと血の色を浮かべたさまがよく熟れた秋の桃果を思わせた。

 どこかで見た貌だと蘭涼は思った。


「おお、来たか斑竹房」

 蘭涼の姿を見るなり、院主は親しげに声をかけてきた。

「今日は何やら献じる書があると聞いた。楽しみにしていたぞ。私もこの黛玉(たいぎょく)もな」

 院主が若い女導士を一瞥して微笑う。


 蘭涼は慌ててそちらへも頭を低めた。

 前の芙蓉殿の貴妃たる李黛玉の顔は勿論見知ってはいたが、化粧をせず髪も露わにしていない今の姿と、咄嗟に誰だか分からなかったのだ。


「これは前の芙蓉殿さま。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。わたくし、白梅殿の員外判官を拝命する紅蘭涼と申します。どうぞ斑竹房と」

「おお、そなたが紅蘭涼か」と、前の芙蓉殿の貴妃たる李黛玉は、見目にいかにも似つかわしい柔らかな声で言った。「私はすでに入道の身、盧遮那(ルシャナ)と戒名で呼べ」

 なんとも魅力ある姫さまだ――と、蘭涼は微かな口惜しさとともに思った。

「そなたの名は玉楊から聞いたことがある。玉楊は息災か? あれは気が強く見えて案外泣き虫だからのう。東院で寂しくしてはいまいか?」

 まるで本当の姉のように心配そうに訊ねてくる。

 蘭涼は胸の奥がほのぼのと温かくなるのを感じた。

「盧遮那さま、どうかご案じなさらず。前の石楠花殿さまは、今は桃果殿東廂に居室を賜り、翡翠(かわせみ)の新内侍さまと呼びならわされております。形ばかりの内侍――などというものではございません。桃果殿さまの懐刀のようでございますよ」

「ああ、玉楊は翠が好きだったものなあ」と、黛玉はごく自然に応じた。

 蘭涼は唐突に思った。

 この先何があろうと、大嬢(ひめさま)とこのお方が相争うことだけはあって欲しくない。



「して斑竹房、献じる書とはそれか?」

 院主が蘭涼の手元の布包みを訝しそうに見る。


 それは黄の地に青い花鳥紋を散らした花やかなタゴール更紗の円筒形の包だった。

 書物や文箱が包んであるにしてはあまりに立体的すぎる。

 蘭涼は相手の考えていることが手に取るように分かった。書と偽って密かに何かを持ってきたのだろうが、あれは一体なんだ?

 そんなことを思っているのだろう。



 ――院主さまはわりと表情が分かりやすいな。桃果殿さまとは大違いだ。



 蘭涼は自分でも意外なほど落ち着いた心地で包みを開いた。

 中に収めてあるのは竹簡だった。

 新しい浅葱色の紐で綴じられているが、竹片そのものは陽に焼けてひび割れかけている。


「……それは、なんぞ?」



 院主が戸惑った声をあげる。

 黛玉も小首をかしげている。



 蘭涼は最初の手札を叩きつけるような心地で応えた。



「光祀元年に外宮妓官の頭領が綴った『柘榴庭諸事日記』でございます。わが斑竹房の書棚から見出し、先日院主さまがお話しくだされた秘めたる故事の証となる記事がございましたゆえ、こうしてお持ちいたしました。なにとぞ御収めを」



 上目遣いに反応をうかがいながら告げた途端、院主の表情が変わるのが分かった。

 蘭涼は冷静に――珍しい羽虫の羽化でも観察するような気持で――院主の表情の意味するところを考えた。


 歓びではない。

 焦りだ。


 院主の視線は明らかに右隣の黛玉を気にしていた。


 こちらは長閑なもので、春風駘蕩とした風情のまま、

「斑竹房、秘めたる故事とは何ぞや?」

 と、訊ねてきた。

 全く何も知っていない様子だ。


 と、

「黛玉、差し出がましいぞ! 斑竹房はこの院主と話しておるのじゃ」

 院主が鋭い声で咎め、

「そなた、厨へ行ってちと茶を頼んで来い」

 と、まるで婢相手のように命じた。


 黛玉は怯えた顔で頷くと、立ち上がってそそくさと板の間を出て行った。

 蘭涼はほっとした。


 どうやら黛玉は何も知らされていないらしい。



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