第九章 御前会議 4
「――光祀元年と申しますと、わたくしは柘榴庭に入って二年目の新米の外宮妓官でございました。当時の頭領は北塞蕎氏――ああ、図らずも当代の柘榴庭の同族ですな、その北部の蕎氏の出で、これはアガール氏族に属します。わたくしは嶺北宋氏で、サルヒ氏族の氏族長筋でございます。あの時分の橘庭さまは洛中杜氏で、これもアガールでございました。あの時分の京は洛中杜氏を宗主としたアガールが優勢でして――」
「橘庭よ、そのくだりは本当に必要なのか?」と、宝紗が口を挟む。「我々は北夷の歌物語を所望しているわけではないのだぞ?」
すると王太后が鋭く咎めた。
「白梅殿! カジャールにはカジャールの習いがあろう。金蝉、好きに語れ」
「かたじけのうございます」
老いた妓官の長は目を潤ませて応じ、宝紗をきっと睨みつけてから再び口を開いた。
「そんなわけで、あの時分サルヒに属するわたくしはさほど重んじられず、頭領が房を留守にするときなぞ、婢の代わりによく掃除を命じられました。そのため、頭領が毎月朔日に必ず外出していたこと――そのときいつも重たげな櫃を携え、必ず単騎でお出ましだったことをよく覚えていたのです」
「それが何のためかは、そのときには知らなかったのか?」と、王太后が訪ねる。
金蝉は頷いた。
「おそらくは頭領自身も知らなかったのではないかと思います。妓官というものは何故とは問うな、上つ方に命じられることを命じられるままただ果たせ――と、代々申し伝えておりましたゆえ」
「蘭渓道院さまが――往時は西院梨花殿にいらせられた秦氏の正后さまが、その御子をおん自ら秘した理由は、慎氏の王太后とその生家が十五代さまの乱倫を咎めて、弟君たる宰相宮への譲位を促すことを恐れてー―斑竹房、蘭渓道院さまはそのように仰せなのだな?」
「はい」
蘭涼は緊張ぎみに応えた。
「宝紗よ、宰相宮の謀叛は光祀の何年だ?」
「七年晩秋でございましょう」
「六年後か。宰相宮は、たしか王宮兵衛を抱き込んで叛乱を企てたのだったな? --金蝉、そのあたりはそなたが詳しかろう。妓官たちはそのときどのような動きをとったのだ?」
「――実は、東院からは叛乱側に与するよう密命がございましたが、柘榴庭は従わず、典範に従って外砦門を固めておりました。重傷を負った者が逃れてきたときだけは受け入れましたが。このとき敵味方かまわず受け入れていたことがかえって幸いして、後宮は全く無関係だった、何も知らず、どちらにも与していなかったと証立てることとなったのでございます」
「ほう。往時の柘榴の頭領は?」
「……わたくしでございます」
老女ははにかみながらも誇らしげに応えた。
「――畏れながら桃果殿さま」と、宝紗が性急に口を挟む。「話題を本筋に戻しますぞ。光祀七年に宰相宮が謀叛を企てて敗れたのだから、先の秦正后の懸念は、その時点で解消されたことになりますな?」
「ああ、そうなるな。荒れ果てていた蘭渓道院が再興されたのは――」
王太后が考え込む。
「誰が知る者はあるか?」
蘭涼は一瞬ためらってから答えた。
「光祀八年初春月でございます」
「そうか。それならちょうどつじつまがあう。御子はおそらくその年まで秦家の家中で養育され、宰相宮が処刑されたのち、十五代さまに存在を明かされて、東崗にお入りになったのであろう」
「しかし、その流れですと、なぜそのときに身分を公にして王子として認められなかったのでしょうか?」と、玉楊が首を傾げる。
王太后が眉をあげ、微かに悪戯っぽい笑みを浮かべて蘭涼を見やった。
「斑竹房、今の玉楊の疑問に、そなたならどう答える?」
まるで殿中での最終試験のようだ。
蘭涼は頭を絞った。
「分からんか? 分からんなら宝紗に答えさせるが」
「いえ、分かります。――その時点ではもう秦正后に、正嫡の世子たる男御子が――のちの十六代さまがおいでだったからでは?」
「その通りだろう。――そもそも秦正后が婢の産んだ子を秘そうと思ったのからして、自身に男児が生まれなかったとき、養母として引き受けるためであったのだろうしな。健やかな御子が生まれたあととなれば、身代わりの庶子は目障りでしかない。――金蝉はその御子の存在をそのときに知ったのか?」
「いえ、わたくしが知ったのはそれから十年ばかりのち、病床にあった先代に代わって橘庭の督に任じられた折でございます」
「先代とは、御子を秘した当人か?」
「仰せの通りで。――先ほど申しました通り、先代は洛中杜氏で、この一族は先の宰相宮の謀叛に連座して殆どが処刑されていました。先代も随分肩身の狭い思いをしながら務めを果たしていましたが、仕舞には病みがちになり――」と、金蝉が目元を潤ませ、微かに喉を鳴らした。
「光祀七年の宰相宮の叛乱以降、アガール氏族の多くが京の官から追われ、われらサルヒがそれに代わるような形となりました。当代の柘榴庭たる蕎月牙の身内は京洛地方には全くおらぬそうです。あれは苦労していると思います」
金蝉が気に入りの子か孫を思いやるような口調で言う。
王太后が労うように頷く。
「おぬしはそのとき先代から秘事を打ち明けられたのか?」
「仰せの通りで。――とはいえ、そのときにはもう、秘された御子はすでに蘭渓道院にて入道なさっており、主上には健やかな王太子がおいででしたから、わたくしはそれほど大きな問題とは思わず、長くただこの胸ひとつに秘めて参りました。しかし、先だって紅花殿さまがご自害なさり、その毒の原料となる法狼機渡りの煙草とやらを蘭渓道院さまがお贈りになったと知ったとき、よもやという懸念が胸に兆したのでございます」
「――東崗のお方がリュザンベール人の正后を認めず、首座導師の血筋を明らかにして謀叛を企てているのではないかと、そのように案じたのだな?」
「仰せの通りにございます」
金蝉はかすれた声で応え、老いてなお端麗な顔をぐしゃりと歪めた。
「そのとき、わたくしは、あの光祀のころの頭領の不審な行動を思い出しました。そして、あれこそが秘された御子のための銭運びだったのではないかと察し、せめても証を滅そうと思い立って、斑竹房どののお目をかすめて、そのお手元の『柘榴庭諸事日記』を処分しようと思い立ったのでございます――斑竹房どのにまんまと企てを見破られ、結局果たせませんでしたが」
金蝉が蘭涼の手元に視線を向けると、他のすべての視線も一斉に集まってきた。
「ほう――。当代の斑竹房はなかなかの切れ者とみえる」
「いかにも桃果殿さま」と、宝紗が如才なく頷く。「この紅蘭涼はなかなかのものです。新内侍さまとは近しい御身内なのですな?」
「幼いころには姐姐、妹妹と呼び合った仲だ」
「ほう、玉楊の」と、王太后が感心したように応じる。「言われてみればなるほど洛中紅家の顔だなあ。玉楊と並ぶと本当に姉妹みたいではないか」
王太后は思いがけないほど砕けた口調で言った。
身内相手の言葉だ。
蘭涼は全身の血が沸き立つような歓喜と興奮を感じた。
まるで天から射す光を浴びているようだ。