第九章 御前会議 2
二日後である。
蘭涼はその日も朝から斑竹房で古記録の整理と修繕に精を出していた。
そのときまた外から扉が叩かれた。
柳花がびくりとする。
蘭涼も筆をとる手を止めて扉を凝視した。
――まさかまた橘庭どのだろうか?
そのとき、
「斑竹房、私だ! 早う開けんか!」
外から思いもかけない声が響いた。
蘭涼は耳を疑った。
柳花も目を瞠っている。
主従は顔を見合わせた。
「「今のお声―-」」
図らずも声が重なる。
「まさか」
一対の目がまた扉を見る。
「か、督でございますか?」
「声で分からんのか?」
外からよく知る声が苛立ちもあらわに応えた。
慌てて扉を開ければ、すぐ外に白梅殿の督たる呉宝紗が立っていた。
梅花の地紋を浮き立たせた艶やかな深緑の緞子の上衣と厚地の白の裳の盛装に身を正し、珍しくも化粧を施している。
壁土みたいに白粉を厚く塗ってこれ以上ないほど唇を小さく描いた古風というより時代遅れで大雑把な化粧である。衣服の趣味の良い柳花が密かに、しかしおぞましげに眉を顰めている。
蘭涼は愕いていた。
何が愕くべきって、この督が化粧をして髷に金歩揺を挿していること自体が珍しい。
一体何が起こっているのだろう?
督はそんな蘭涼の立ち姿をざっと眺めてから、
「化粧もしているし官服も着崩していない。髪はちと寂しいが――ま、これならこのままでよかろう」
と、勝手に納得した。
蘭涼は恐る恐る訊ねた。
「あの督よ――」
「何だ?」
「畏れながら、何の御用ですか?」
まさか抜き打ちの服装確認ではあるまいな?
「ああそうだ、急ぎの用なのだ」
督が表情を引き締めて答えた。「来い斑竹房。東院からのお召しだ。光祀元年の『柘榴庭諸事日記』を持ってこい」
途端、柳花の顔が強張った。
幸い宝紗は女嬬の表情にまでは注意していないようだった。しかし、この場でそれ以上何か話すつもりもないようだ。
蘭涼は混乱しつつも、定めた通りの場所にある竹簡を取り出すと、柳花を先に出してから、房の扉に外から鍵をかけた。
「お待たせいたしました」
「急ぐぞ」
階を降りると竹林のなかに宋金蝉が立っていた。
「待たせたな橘庭」
宝紗が手短に労う。金蝉は何か言いたげな目つきで蘭涼を見ていたが、宝紗の耳目を憚ってか何も言わなかった。
「行くぞ。桃果殿さまがお待ちだ」
その言葉を聞いた途端、蘭涼は全身がピリリと引き締まるのを感じた。
お召しは桃果殿なのだ。
東院桃果殿にお住まいの王太后さまがじきじきにお呼びなのだ。
――きっと大嬢だ。
この頃の一連の事件の顛末を報告された玉楊が、事態の重さを鑑みて王太后さまに申し上げたのだろう。
――桃果殿さまは李氏――尚書令たる左宰相公の慎氏に圧されて影の薄い中書令たる右宰相公のご一族だ。いま蘭渓道院にいらせられる前の芙蓉殿さまの李氏――あの方は母方が秦氏だ――そしてわれら紅家の大嬢のおん母君も李氏――……
錯綜する京洛の大家の血縁関係を思い起こしながら、白梅殿と紅梅殿のあいだの一丈道を南へ急いでいると、
「なあ紅蘭涼――」
前を行く宝紗が微かな笑いを含んだ声で呼んできた。
「そなたもいよいよ権謀術策の表舞台に飛び込んできたなあ。この先私の敵となるか味方となるかは知らんが、今のうちにひとつ忠告してやる」
「――なんでございましょう?」
「目的のために術策を弄するのはかまわんが、策に溺れて大義を見失うなよ? 清濁併せ呑むのは何のためか、泥を被るのは何のためか、己が何を欲しているのかを見失うなよ?」
宝紗はまるで自らに言い聞かせるような口調で話した。
蘭涼はしばらく考えてから訊ねた。
「督は何を欲しているので?」
「私か? 決まっている」と、宝紗は当たり前のように答えた。「この後宮の存続だ。あの小面憎い紅梅殿の判官も、その点では私と同じだろうよ」
薄暗い道を抜けると光が溢れた。
白梅、紅梅両殿の前に広がる石畳の広場の向こうに赤茶の瓦屋根つきの表門が見える。
築地の向こうに媽祖堂の六角屋根が見え、右手の高台に桃果門の屋根が見えた。
蘭涼は不意に胸を刺されるような寂しさを感じた。
――このまま何もせずにいたら、この場所はもうじきに潰えるのだ。
いま西院にいらせられる混血の御子は、きっとリュザンベールの風習に従ってただ一人の正后さましかお迎えにならないだろう。リュザンベール人の正后さまは、きっと東院桃果殿に移り住みはしないだろう。確固たる権力で後宮をお守りくださっている当代の王太后さまが身まかられたら、この場所はどうなってしまうのだろうか?
そう思うと不安を感じた。
そして唐突に柳花の行動の理由が理解できた。
見えない未来は怖ろしい。
確固たる何かに縋りついて身を護りたくなる。