第一章 斑竹房の判官 3
高床小屋の階を降りると、竹林のなかにもう二人の武芸妓官が待ち受けていた。
みながみな長身痩躯で、肌の色はやや浅黒く、彫りの深い面長の顔立ちをしている。かつて内宮と呼ばれた後宮中枢を守備する武芸妓官の殆どは三百年前に双樹下に服した北方の騎馬民族、カジャール族の氏族長の血統なのだ。
姉妹のようによく似た妓官たちは、手首に組紐をかけられた蘭涼の姿を目にするなり傷ましそうに視線を逸らした。
三人の妓官に囲まれて引いていかれた先は橘庭の正殿だった。
殿の階の前に一対の橘が植え込まれている。青光りのする沓脱ぎ石の上で布靴を脱いで廊へとあがる。宋金蝉が手ずから朱塗りの扉を開いて室内へと招き入れた。
三丈〔約9m〕ほどの広々とした板の間で、床には北方風の藍色の毛氈が敷き詰められ、正面の低い台座の上に、黒光りのするひじ掛け付きの床几が据えられている。その上の額に、金泥で「橘庭政庁」と書かれている。
「だれか床几をもて」
金蝉が命じると、妓官の一人がすぐさま床几を運んできた。
「そちらへおかけくだされ」
台座と向き合う形に据えられた床几に蘭涼が腰掛けるのを待って、金蝉が台上にあがって自分も腰掛けた。今度は文机が運ばれてきて、台座の右手に置かれる。そのあとで、思いがけず、明るい緑の上衣と白い裳という蘭涼自身とほぼ同じ官服姿の四十がらみの女官が入ってきた。帯は金刺繍入りの黒繻子。妓官たちと同じ品だ。
――ああ、橘庭付きの録事どのか。
白梅殿における禄事は判官の一歩下で主典の一歩上、準三等官といった地位だ。女官は白い裳裾をふわりと広げて文机の前に坐ると、慣れた手で紙を広げ、硯に水を垂らして墨をすりにかかった。
「ところで斑竹房どの――」
台上の金蝉が軽い世間話のような調子で口を切った。
「遜子蘇という名にお聞き覚えはあるか?」
「遜子蘇?」
蘭涼は思わずおうむ返しにした。
全く知らない名である。
響きからして男性名のようだが、後宮守備の妓官の督が訪ねるからには、男性名の女官なのかもしれない。
「あいにくと思い当たりませんね。どちらの御殿の女人ですか?」
訊ねるなり、金蝉はわずかに目を見開き、そのあとでほっとしたように笑った。
「ああ、ああ、まことに相すまぬ。このたびの騒動に、御身は全く関わっていらっしゃらないようじゃ。遜子蘇なる男は女官ではない」
「男、ですか」
「ああ。先だって紅梅殿の判官どのを――さすがにご本人ではなく囮の妓官だったそうじゃが、それをご本人と見誤って襲撃した赤心党の曲者どもがあったことは御聞きお呼びか?」
「小耳には挟んでいます」
蘭涼は用心深く答えた。
赤心党というのは、この頃急に現れた反リュザンベール組織だ。
この組織は雲のように実態がつかめず、京洛のどこかの大家が密かに後援しているのではないかと噂されている。蘭涼が知る限り、生家がそんな活動に関わっているという話は聞いていないが、反リュザンベール派の歴々が大抵は「お気の毒な前の石楠花殿さま」贔屓である関係で、洛中紅家の一族は常に微かな疑惑の目を向けられているのだ。
「然様か」
蘭涼の緊張にかまわず、金蝉は無造作に頷いて言葉を続けた。
「遜子蘇はその曲者の一人じゃ。柘榴庭が捕らえ、旧・外宮の牢屋敷に捕縛しておる。しばらく身元が分からなかったが、ここへきてようよう名が知れたと後宮にも報せがあった」
「そうですか」
蘭涼は目を瞑って手探りで将棋の駒を進めているような心もとなさを覚えながら応じた。
「その曲者と、わたくしとどう関わりが?」
訊ねるなり、金蝉がまたしても気の毒そうな顔をした。
「その遜子蘇なるもの、国子監の学生だったそうじゃ」
それはあんまりだ――と、蘭涼は内心で嘆いた。
国子監の学生は五百人はいるのだ。その中の一人がたまたま反リュザンベール運動に関わっていたからといって、なんで祭酒の娘までが拘禁されなけれなならないのだ?
――世の中理不尽すぎる……
そんな思いが顔に出てしまったのか、金蝉が心底申し訳なさそうに眉尻をさげた。
「まことにもって相すまぬが、ご生家の当主の配下から咎人が出た場合、騒動が集結するまで、娘御たる女官は拘束すると典範に定まっておってな。斑竹房どのにはしばしこの殿にとどまっていただく。この橘庭の名に掛けてご不自由はおかけせぬ。要りようの品があれば何なりと仰せられよ」
「ありがとうございます」
蘭涼は機械的に礼を言ってから、ふと思い立って訊ねてみた。
「では、わたくしが先ほどまで修繕していた竹簡を差し入れていただけますか?」
「……竹簡?」
金蝉が眉をよせる。
蘭涼は慌てて言い添えた。
「ああ、もちろん小刀は要りません。ただ、今あれは繕いの途中でしたから、せめて先に内容だけでも目を通しておこうかと思いまして」
「なんと、斑竹房どのは職務熱心だのう!」と、金蝉が心底感嘆したように応じる。「ならばすぐ――」
と、
「督、竹簡はなりません」と、録事が鋭く口を挟んだ。
「なぜじゃ?」
「先例でならぬと決まっております」
「――だそうじゃ」と、金蝉は哀しそうに応じた。「ま、私とてもならぬ理由は分かる。割り竹は強力な武器になるからの」
いや、そんなもの武器にできるのは貴方たちだけですよ――と、蘭涼は内心で呆れた。
「では何か書物を差し入れてください。この御殿にあるもので結構ですから」
「書物……か」
金蝉が難しい顔で唸った。「何かあったかのう?」
「督、犯科帳はなりませんぞ? 先例でならぬと決められております」
「そうか。困ったの。楽器やすごろくなんかではいかんか?」
「いやあ、楽器やすごろくはちょっと……」
蘭涼はあまりの常識の差異に驚愕していた。
この世に書物の存在しない御殿が存在するのか?
暇なときこの妓官どもは何をしているのだろう。