第八章 透明な犯人 5
「柳花――」
蘭涼は哀しみと困惑のないまぜに感じながら呼んだ。
見慣れているはずの大きな高床小屋の屋根が、今は右手から赤らんだ夕の陽に照らされている。その小屋の階の前に大小二つの姿があった。月牙と柳花である。それぞれ左手に長い青黒い影を伸ばしている。
「判官様、申し訳ありません」
柳花が両手で竹簡を差し出してくる。
「お捜しの品はこちらでございますね。どうかお検めを」
蘭涼は恐る恐る受け取って浅葱色の紐をほどいた。
初めの部分だけ広げて目を走らせる。
――柘榴庭諸事日記 光祀元年
間違いない。
これがあの竹簡だ。
「柳花、なぜ――」
かすれ声で問い詰めようとしたとき、
「蘭涼どの、房へ入りませんか?」
背後から雪衣が囁いてきた。「ここはそれほど密談には向かない。たぶんもうじき疎林の外の道を洒掃所の婢たちが来ます」
「え、ええ」
蘭涼は慌てて鍵を探ると、階を登って両開きの扉の取手を貫いて報じる環型の錠を外した。
「どうぞ紅梅殿の判官どの」
「かたじけない斑竹房の判官どの」
雪衣が意外なほどきちんとした言葉遣いで応じる。蘭涼は誇らしさを感じた。
――そうだ。私は斑竹房の判官なんだ。この書房には私の許した者しか入れなんだ。
「柘榴庭も入れ。柳花もな」
全員が房内に入ってから、内側の閂を閉める。
日暮れ時の書房の内は薄暗かった。蘭涼は扉の右手に立てかけてあった薄縁を自分で床に敷くと、まず雪衣に坐るよう促した。
「で、改めて柳花」と、蘭涼は三度目の正直とばかりに訊ねた。「正直に答えなさい。誰に命じられた?」
一拍の沈黙の後で、柳花がくつくつと喉を鳴らして嗤った。
「ねえ判官様――」
「なんだ?」
「わたくしにも目と耳があり、ものを考える頭があるるのですよ――」
柳花は肩を震わせて嗤うように応え、不意に掌で顔を抑えてむせび泣き始めた。
だれに隠せと命じられたわけでもありません――と、老いた女嬬は話した。
「その竹簡が何か大切な品らしいと初めに察したのは、判官様が解き放たれる前の日――紅花殿さまがご自害なされた翌日に、橘庭さまが密かにわたくしをお呼びになり、光祀元年の『柘榴庭諸事日記』がもしまだあったら焼き捨てて欲しいと、思いつめたお顔で仰せになったときでした」
「ああ、じゃあ橘庭どのは、この品を密かに処分したがっていたんだね?」と、雪衣が安堵したように訊ねる。柳花が頷いた。
蘭涼もほっとした。
「それで、そなたは何と答えたのです?」
「もしあったなら、できるかぎりは試みましょうと。――判官様のお目を盗んで竹簡をかすめ取るのは思った以上に困難でしたけれど」と、柳花が喉を鳴らして嗤う。蘭涼はこんな場合だと言うのに微かな誇らしさを感じた。
「――次に大切な品らしいと感じたのは、判官さまがお戻りになった後でした」
「私が?」
「はい。判官様は迷わずそまずその『諸事日記』を御手にとられました。橘庭さまが打ち棄てたがっておいでで、判官様が熱心にご覧になっている古記録――それならばきっと大切なもの、何か秘された値打ちのある記録なのだろうと察しました。ですから、橘庭さまには、その年の巻はございませんでしたと御知らせし、わたくし自身のために密かに盗み取る機会をうかがっていたのです」
「なるほど――」と、蘭涼は苦笑した。「私があれを手に取ったのは、あの時点では単なる偶然だったのだけれど」
「その偶然がなかったら、たぶん紛失にも気づかなかったはずですよ」と、雪衣が口を挟む。
蘭涼は――半ばふざけてー―眉を吊り上げて見せた。
「雪衣どの。消失です」
「ああ失礼、消失ですね」と、雪衣が真面目くさって応じる。黙って聞いていた月牙が肩を震わせて笑った。
「つまり、そなたはこの竹簡の中身に何が記されているか、それがなぜ重要なのかまでは、知らなかったのですね?」
「はい判官様、その通りでございます」と、柳花は悄然と答えた。「欲にかられた愚かな老婆の浅知恵でございます。そんなに大切な品なら、秘しておけば何かの得になるのではないか――誰が欲しているのかが分かりさえしたら、もしかしたら多少の財産でも作れるのではないかと、そんなことを考えてしまったのです」
柳花は自分の短慮をこの上もなく反省しているようだったため、蘭涼はそれ以上は咎めないことに決めた。
「ほんの短い間とはいえ、鍵をかけずに房を空けた私の管理責任もありますしね。――それにしても、そなたは恬淡として見えるのに、そんなに余分の財産を欲しがっていたというのは意外です」
思ったままのことを口にすると、柳花は年長者らしい呆れ笑いを漏らした。
「御言葉ながら判官様、世の大抵の人間は財産が欲しいものです。――わたくしは生家に帰っても近しい身内もおりませんしね、死ぬまでこの宮で御奉公できれば万々歳ですが、また去年の夏のように宮が廃されるなどという事態になって禄を断たれましたら、その先どう生きていったらいいか分かりません。このごろ不安なのですよ。夫もなければ子も孫もなく、帰る家さえなくて、もしこの宮を追い出されたら乞食にでもなるのかと――」
柳花は生きることに疲れたように淡々と話した。
蘭涼は何と答えていいのか分からなかった。
と、思いもかけず、雪衣がずいっとばかりに柳花ににじり寄ると、膝の上に揃えておかれた痩せた両手をしっかと握りしめた。
「女嬬よ、主計の禄を食む官の一人として、その訴え心しておく。この先後宮がどうなろうと、人生の大半を宮に捧げたそなたらのような者を路頭に迷わせることはしない。紅梅殿は必ず力を尽くす。困ったら必ず訴えるのだ。だれにでもいいから訴えろ。我々はそのために高禄を食んでいるのだから」
そう語りかける声音はどこまでも真摯だった。
柳花が再びすすり泣き始める。
蘭涼は呆気にとられた。
「柘榴庭―-」
思わず口にしてしまう。
「紅梅殿の判官はああいう人柄なのか」
「ええ」と、月牙はなぜか誇らしそうに答えた。「あれこそが紅梅殿の判官様ですよ」