第八章 透明な犯人 3
半刻後――
蘭涼はなぜか雪衣と連れ立って白梅殿の表門を潜ろうとしていた。
雪衣は腕に黒漆塗りの菓子鉢をしっかと抱えている。
今日の門衛は顔見知りの内宮妓官の郭彩濵だ。
彩濵は二人の姿を目にするなり率直な愕きの表情を浮かべた。
「これは斑竹房さまに紅梅殿の判官さま。お珍しいお連れ立ちで!」
「そうかな? 蘭涼どのとは東院の新内侍さまのところでこの頃よくお会いするんですよ」と、雪衣が人懐っこく答える。
「それは存じませんでした。今日はお二人して謎解き合戦でも?」
彩濵が悪戯っぽく訊ねてくる。
「ええ、実はそうなんです」と、雪衣が真面目くさって答える。「これは絶対秘密なんですけれどね、蘭涼どのがとても大切になさっているとある書物が、完全に鍵のかかっていた房から煙みたいに掻き消えちゃったんだそうです」
「ほほう」と、彩濵が面白そうに応じる。「まさしく芝居みたいですなあ。ところでそのお手のものは?」
「これはね、新内侍さまのところで賜った上等のお茶菓子です。どうぞおひとつ御毒見なさってください」
雪衣が菓子鉢の蓋をあける。中に入っているのは餡入りの円い焼き菓子だ。
「これはかたじけない。ではひとついただきます」
彩濵が菓子をひとつ取って食べるのを待ってから、蘭涼と雪衣は肩を並べて玉砂利敷きの路を進み、中庭から北の殿へと入った。
廊に並んで迎えに出てきた部屋付きの女嬬たちは、雪衣の姿を目にするなりぽかんと口をあけた。
「小姐、そちらのお方は――」
「燕児、人前で小姐はやめなさい」と、蘭涼は苦笑ぎみに咎めた。「こちらは紅梅殿の判官どのです。恥ずかしながら、務めの間にちょっとした失せ物をしてしまいましてね、話題の謎解き判官さまのお力を借りることになったのです」
「及ばずながら尽力します」と、雪衣が――わざとらしいほどへりくだった調子で――深々と頭を下げてくる。
途端、燕児の顔がパーッと輝いた。
「まあまあまあまあ紅梅殿の判官様、ようこそいらせられました! 英華、すぐにお茶の支度を!」
「ああそうだ、お茶と言えば」と、雪衣が菓子鉢を差し出す。「この菓子は東院の新内侍さまからの賜り物でね。ずいぶん数があるから、私たちに一つずつつけたら、残りはみなで分けるといいよ」
「あらあらあらあらかたじけない! では有難く頂戴いたします!」
「ついでだから柳花にもひとつ持っていってやりなさい」と、蘭涼はできるだけさりげなく聞こえるように気を付けながら命じた。「周柳花は分かる? 斑竹房付きの女嬬です」
「ええ小姐、もちろん分かりますとも」
白梅殿の後庭には婢長屋と厨のほかに、公費で雇われている殿付きの女嬬たちの住まう方二丈の高床小屋が四軒並んでいる。
蘭涼の部屋付き女嬬の範英華は、薄紙に包んだ菓子を手にして、一番北側の小屋の階を意気揚々と登っていった。
コンコン、と扉を叩いて呼ばわる。
「申し、蘭涼さまの使いで参りました――。周柳花どのはおいでですか――」
紅梅殿の殿付き女嬬たちは三人でひとつの房を使っている。
ややあって内側から扉が開いて、上品な面立ちの小柄な老女が現れた。
「あらら老太婆、あなたが周柳花どのなの?」
十六歳の小娘はなれなれしく訊ねた。老婆というもの全般を非常に見下しているのだ。柳花は一瞬むっとした表情を浮かべたが、すぐに愛想のよい笑顔を取り繕って頷いた。
「ええ、わたくしが周柳花でございますよ。判官様が何か?」
「え、老太婆すごーい! お耳が早いのねえ。そうなの、今ね、蘭涼さまのお部屋に紅梅殿の判官さまがいらしているの!」
判官様――という敬称を、柳花はもちろん「斑竹房の判官様」の意味で使っていた。紅梅殿の判官様、という思いがけない言葉を聞くなり、柳花は蒼褪めた。
紅梅殿の謎解き判官様。
昨年、自らの冤罪を自ら晴らして後宮へ帰還なさったお方だ。
「紅梅殿の判官様はねえ、ウチの蘭涼さまの失くしものを捜してくださるのですって! あ、そうだ、これお菓子です。蘭涼さまが東院の新内侍さまから賜ったのですって」と、英華は得意満面で話し、呆然と立ち尽くす柳花の手に菓子の包みを押し付けるなり、淡い水色の裳裾を花びらみたいに広げて階を駆け下りていった。