第七章 掌中の珠 3
紅蘭涼という中堅官吏は、中堅官吏としては極めて、きわめて優秀である。
その優秀な若手官僚が閑にまかせて七か月間整理整頓に励んだ結果、現在の斑竹房の壁三方を埋め尽くす書棚は、年代別、種類別に整然と分類されている。
光祀元年の『柘榴庭諸事日記』のあるべき場所は決まっているのだ。
その場所に肝心の竹簡がない。念のためにと周りを捜しても、同じ大きさの竹簡の収まる棚を端から確かめても、つい半月前、橘庭での拘禁を解かれるとすぐに補修したはずの竹簡は影も形も見えないのだった。
「……どういうこと?」
蘭涼は呆然としていた。思わず腰帯に吊るした銀の環に下がる鍵を探ってしまう。
この主屋に入る入口は一か所。責任者である蘭涼が不在のときは、扉の錠にはいつも鍵がかかっている。拘禁されるときだって間違いなくかけていたはずだ。
--この鍵には写しはない、はすだよね?
よいか紅蘭涼、と七か月前に白梅殿の督は言った。そなたはこれより斑竹房の名を冠して呼ばれる。斑竹房の鍵はそなたが預かり、そなたの許しなしには誰も入れぬということだ。心せよ斑竹房の判官。
そう告げられたとき、蘭涼は何の感慨も受けなかった。
だが、今は違う。
――誰かが踏み込んだのだ。私の斑竹房に。
そう思うなり怯えではなく怒りが浮かんできた。
同時にひどく混乱もしていた。
留守のあいだはずっと施錠されていたはずの主屋に、誰が、どうやって、何のために入り込んであの竹簡を盗み取っていったのだろう?
何もかもか謎だらけだ。
--もしかしたら竹簡はどこかにあるのかもしれない。単に私が戻す場所を間違えただけなのかもしれない。
そんな果敢ない希望に縋って、午後の終業の鐘が鳴るまでずっと書棚を捜したが、求める日記はついに見つからないままだった。小窓の下で竹を削りながら、女嬬の柳花が気づかわしそうに訊ねてくる。
「判官さま、何をお捜しで?」
「いえね、大したものじゃないの」蘭涼はあいまいに笑ってごまかした。
悩みと怒りに混乱しながらも、とりあえずまた扉に鍵をかけ、なんとも釈然としない心地のまま自室へと向かう。午後からまた大嬢に呼ばれているのだ。
部屋付きの女嬬である魯夏俊が殿の厨から運んできた昼餉を大急ぎで平らげ、燕児と英華に手伝わせて見苦しくない程度の身づくろいをする。
「小姐、なんだかこの頃お忙しゅうございますねえ!」と、燕児が嬉しそうに言いながら帯を結んでくれた。「お髪はどうなさいます? やはり真珠ですか?」
「ええ」
どうもこの頃燕児のなかで、玉楊の株が急速に持ち直しているらしい。喜ばしいことだと蘭涼は思った。どのような世の中になろうと、大嬢は重んじられるべき方だ。
東院の表玄関たる桃果門は、今日も二人の内宮妓官に守られていた。いつもと同じくたっぷりとした袖の中まで検められてから入門を許される。中門を抜け、桃樹の下の白砂を踏んで御殿の階の前へ出る。
「申し、桃果殿の方々――」
何もかもがいつも通りの手順だ。
この場所は変わらない。
外の世界がどれほど激動しようとも、琥珀のなかに封じ込められた羽虫の躯のように閑かな秩序を保ち続けている。
そう思うとなぜか哀しみを感じた。
――大嬢はこの場所で本当にお幸せなのだろうか?
じきに現れた近侍に導かれて御殿の東の奥へと向かう。
回廊に面した控えの間にいつもの通り二人の女嬬がいた。紫檀の扉の向こうから人の気配がする。
「大嬢、斑竹房さまがお見えです」
「来たか蘭良。入れ。珍しい客がいるぞ」