第七章 掌中の珠 2
辻から新租界までは目と鼻の先だった。
蘭涼は外砦門の手前で輿を降りた。
「斑竹房さま、お供の方も。遠路さぞお疲れでしょう。どうぞわたくしの房で一服なさっていってください」
月牙が丁重に――ややぎこちなく――促し、蘭涼と小蓮を司令部へ導き入れた。
崔芳淳は月牙の方二丈でのんびり縫物をしていた。珍しい栗色の髪の混血の元・妓官――名を宋麗明と言って、その見目のために割と名を知られている――が、これものんびり針をうごかしながら話し相手を務めていた。
「芳淳どの、ただいま戻りました」
「うむ」
祐筆は泰然自若と頷くと、特に何も訊かず、衝立の後ろで着替えを済ませ、何事もなかったように再び現れた。
「では戻ろうかの。――東崗に赴いた身として、わたくしが何か知っておくべきことは?」
事務的な口調で訊ねてくる。
蘭涼は一瞬ためらってから首を横に振った。
「いえ、とりたてて何も」
よいか斑竹殿、と院主は蘭涼の両肩をつかんで命じてきた。―-そなたはこの秘事をそれとなく人に広めよ。前の石楠花殿の耳には必ず入れるのだ。
院主にそう命じられたものの、蘭涼は聞かされた秘事をやみくもに人に報せるつもりはなかった。
まずは事実を確かめてからだ。
蘭涼が最も信頼する文字の記録のなかから、自分が納得できるだけの証拠を見出してからだ。それこそが公文官の心意気ってものだ、と蘭涼は自身を奮い立たせた。
その日はあまりに遅くなったため、北院へ戻ったときにはもう皆寝静まっているようだった。門衛の妓官に念のため督への取次を頼むと、
「明日にせいと仰せです」
と、申し訳なさそうに伝えられた。
蘭涼は有難く自室へ戻り、忠実な燕児に手伝わせて着替えると、なじみ深い柔らかな寝具に体を埋めた。
気持ちはひどく昂ぶっているのに体は疲れていた。
――なんだか久々に生き返ったような気がする――
泥のように重い眠りに落ちる寸前、蘭涼はふとそんなことを思った。
翌朝である。
蘭涼は食時の最後の鐘が鳴るとすぐに白梅殿の正殿へと向かい、一日遅れの帰還の挨拶をした。
「ご苦労だったな斑竹房」と、白梅殿の督はいつものざっくばらんな調子で労った。「蘭渓道院様から何か言伝は?」
「いえ、とりたてて何も」
蘭涼は応えながら微かな怯えを感じた。
――督は何をどこまでご存じなのだろう?
「ほう。何もなしか!」と、白梅殿の督は芝居がかった調子で痩せた肩を竦めてみせた。「斑竹房、そなたの記憶力を見込んで頼む。法会の列席者の名を一覧にして今日中に提出せい。百両の鼻薬代、何としても元を取らねばならん」
「お言葉ですが督よ――」
蘭涼は思わず言い返していた。「この斑竹房、昨日はあくまで同族たる東院の新内侍さまの代理として参上した身――私事である以上、そこで見聞きしたことについて公儀に逐一報告する義務はないのでは?」
「ほほう」
監督は面白そうに笑った。「一皮剥けたな斑竹房。しかしな、生憎そなたは白梅殿名義の銭票を東崗に運んでいるのだ。その時点で公事でもある。つべこべ言わずに提出せい。今日の午までだぞ?」
「――承りました」
渋々ながら――という呈を装ってはいるものの、蘭涼の心は弾んでいた。
急ぎの仕事があるというのは実にいいものだ。
自分が確かに有用な人間なのだと認めてもらえた気がする。
正殿を辞し、玉砂利を敷いた路を北へ進んで、通用門から竹林へと出る。
横八丈〔*約24m〕の高床小屋はいつもとかわらずあった。薄板を重ねた杮葺きの屋根が右手から射す陽に照らされて白く輝いてみえる。
七か月毎日――旬の末の休息日を覗いて――朝から昼過ぎまでずっと詰めていたはずの斑竹房を、蘭涼は初めて見るような心地で眺めた。
――この場所に初めて来たとき、私はこの世が終わってしまったような気がしていたんだ。
初めて筆をとった日からずっと重ねてきた努力が理不尽な力によって台無しにされ、これからはあらゆる晴れがましいこととは切り離されて、生きた死体みたいに生きていくのだ――と、諦めきっていたのだった。
横長の高床小屋は、改めて見るとなかなか大きかった。縦二丈、横六丈の丸太壁の主屋の周りを一丈の廊が囲んで、その上に廂が張り出している形だ。廂を支える柱――横には六本並んでいる――のあいだに板戸を立てれば、外の廊の部分も房として使える。
今は左手の三分の一にだけ簾が架かっていた。
真ん中の七段の階を登ると、簾の側で房付きの女嬬が拭き掃除に精を出していた。蘭涼が昇ってくるのに気付くなり、慌てて雑巾を手桶の縁にかけてひざまずく。
蘭涼は一瞬ためらってから労いの言葉をかけた。
「柳花、朝から精が出るな。留守中なにか変わりはなかったか?」
訊ねると、白髪の女嬬は意外そうに眼を瞠り、そのあとでにっこりと笑った。
「いいえ判官様、何もございませんとも」
丸太を横に並べた壁を備える主屋への入り口は南側の真ん中の一か所しかない。両開きの扉の錠を開けて中へ入った蘭涼は、左手の小窓の下に文机を据えると、すぐさま書き物の支度にかかった。
法会の列席者の数は三十二人だった。堂を前にして並んでいた順に書き並べ、分かる限りの身分や位階を書き添えてもさほど時間はかからなかった。
――さてと。これでよし。すぐに届けてくるか。
午後は東院の大嬢に呼ばれているのだ。今できる用事はさっさと済ませておきたい。
「ちょっと出てくるよ」
「お気をつけて」
女嬬は掃除の手をちょっとだけ止めて応えた。
書き物を正殿へ届けた蘭涼は、旧書房へ戻ると、すぐさま光祀元年の『柘榴庭諸事日記』を捜しにかかった。
そして愕然とした。
「嘘」
どこにもない。