第一章 斑竹房の判官 2
――しかしまあ、仕方がない。禍福は糾える縄の如しと言うしな。きっとそのうちもう一度運命が反転しない……とも限らない。
たとえばこの国の風土に慣れないあの忌々しいリュザンベール女――否、当代の正后さまが、やぶ蚊にさされて夏の熱病に罹って急死したりすれば、返り咲くのは間違いなく紅家の大嬢だろうし……と、内心密かに不穏な期待を抱きつつ、蘭涼は文机の傍らの山の一番上から、古びて飴色に変色した竹簡を取り上げた。
――おお、ボロボロだ。そろそろ紐も限界だな。内容確認の前にざっと修繕しておこうかな……
根が生真面目で職務熱心な蘭涼は、心中ひたすら愚痴をこぼしつつも、課せられた業務は忠実に履行している。
古い竹簡を綴じる紐は微かな萌葱色を残していた。
かつて後宮の陸側の表門だった外宮外砦門を守備していた二十名の武芸妓官――女官ながらも武具をとって後宮を守備する双樹下後宮独特の官職だ――の頭領が日々の務めについて綴った『柘榴庭諸事日記』のようだ。
触れたら今にもちぎれそうな紐をほどいて、光の斑の降り注ぐ文机の上にそろそろと竹簡を広げる。
磨きのよい細い割竹の一本一本に、日付を冠した古の諸事が一行ずつ記されている。
「――光祀元年晩冬月―……五十一年前か……」
何となく声に出して呟いてしまう。思ったよりも古くなかった。どうやら一度水にでも浸ったらしく、年代のわりに綴じ紐の傷みが激しい。
何の気なしに文字列に目を走らせていた蘭涼は、月初めごとに同じ文言が現れていることに気付いた。
「東左京御乳母君に五十両。……毎月出てくるなあ」
我知らず声を出してしまってからハッとする。
どうもこの暇すぎる職に追いやられてから独り言が多くなっている気がする。
妙なやつだと思われていないか心配になって女嬬を見やると、白髪の老女は全く気にせず、ただ黙々と竹を削り続けていた。
蘭涼はハ―ッとため息をついた。
もしかしたらあれは五十年後の自分の姿かもしれない。
そう思うと哀しくなった。
傷んだ紐を小刀で切り取り、新しい紐で綴じていたとき、右手の扉が外から叩かれた。珍しくも人が来たようだ。
「開けてやりなさい」
「はい判官様」
女嬬が立って入口へと向かう。
扉が内側から開かれるなり、眩く白い陽光がどっと射しこんできた。
「斑竹房どの、お務め中失礼いたす」
女声にしては太く落ち着いた声が告げるなり、老いた女嬬がひゃっと叫んで跳びすさぶようによけた。
「き、橘庭さま……!」
「え?」
蘭涼もぎょっとして見た。
光の中に立っているのは、一瞬男と見まがうような長身痩躯の姿だった。
白麻の筒袖の上衣と濃い藍色の括り袴。
金刺繍で菱紋を縫い取った黒繻子の帯に黒鞘の刀を吊るし、背には白鷺の羽矢を収めた籐の箙を負っている。
雪のような白髪の髷の根元を飾るのは常緑の橘の葉。
後宮を守備する武芸妓官すべてを束ねる北院橘庭の督の宋金蝉である。
年頃はおそらく七十近くだろうが、いまだに煌びやかなまでに端麗な面差しを保った老女だ。
「橘庭どの、如何なされました?」
蘭涼が訪ねるなり、端麗な老女は何とも申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「――斑竹房どの、まことに相すまぬ」
「何をお謝りで?」
「その、なんだ、あ――」
一見沈着冷静そうに見える老女は心底困ったように唸り、じきに観念したように小首をかしげて告げた。
「相すまぬが、御身をしばし拘禁いたす。お心に何ら疚しいところがなければ、ちとお手を前に揃えてお縄をかけさせてもらえんかのう?」
「お縄、でございますか」
「然様」
何故ですか――と、問いただす気力は今の蘭涼にはなかった。
たぶん、一介の員外判官にはあずかり知らぬ雲の上でなにがしかの陰謀が発覚したのだろう。
この頃あまりに理不尽な不遇が多すぎて、抗う気力も失せてしまった。
――まあいいか。最悪でも殺されはしないだろうし。
何某の冤罪をかけられていずこかの御殿に生涯軟禁――なんて処遇になったとしても、正直なところ、現状よりさらに悪いとは言えない気がしてしまう。
閉じ込められた先でも書物が読めればいいんだが、と諦めきった希望を抱きながら両手を差し出すと、
「まことにすまんのう。これも典範でな」
宋金蝉が涙ぐみながら、丁重な手つきで赤い絹の組紐をかけてきた。ゆるっとした結び目からして、本気で拘束するつもりはなさそうだ。
蘭涼はその事実に勇気づけられ、今もっとも気になることを訊ねてみた。
「紅大嬢は――前の石楠花殿さまは無事ですか? あのお方のお手にも、よもや縄が?」
「そちらはご案じなさるな」と、老女が低く応じた。それ以上の詳細は、さすがに教えてもらえないらしい。