第六章 山の御子 3
門の内には白砂が敷き詰められていた。
すぐ先に築地塀が伸びて、門扉のない半円形の出入り口が開いている。
玲林に導かれてその入り口へ向かっているとき、斜め後ろから大きな鐘の音が響き渡った。
「おや、もう隅中〈*午前10時頃〉か」と、玲林が振り返って、気さくな調子で話しかけてくる。「斑竹房さま、御知らせしてある通り、法会は午後からだ。それまで院主さまの四方山話にお付き合いくだされ」
「わたくしのごとき若輩者が、光栄でございます」
蘭涼は慎重に応えた。
相手が一介の内宮妓官であれば白梅殿の員外判官のほうがはるかに高位だが、この規模の道院の都管となると社会的地位は対等、年功を考えれば相手のほうが上の立場かもしれない。
どこまでへりくだったものかと気をもみながら軽く頭を低めると、玲林は眦の皴を深めて微笑した。
「そう畏まりなさるな。数にもならぬ一妓官が『都管さま』なぞと呼ばれているのは、単に外との使いに最も便利が良いからに過ぎぬ。ささ、お入りなされ。院主さまが朝からお待ちかねだ」
「本当に光栄です」蘭涼はやや砕けた口調で応じた。「ところで都管さま」
「玲林とお呼びくだされ」
「玲林さま、前の芙蓉殿さまは、法会までずっと御潔斎を?」
「ああ、夕べから斎殿においでだ」
「ではじかの御対面はかないませんか?」
「法会の後ならば叶うだろうが―-前の石楠花殿さまから内々のお文でもあるのか?」
「ええ。まさしく」
「芙蓉殿さまのお話では、貴妃さまがたは西院で姉妹のように仲良うお暮しだったらしいからなあ。だれが正后に立つにせよずっと近くで暮らせると思っていたのにと、ここへいらした初めのころ、よくそうお泣きになっていらした。全くお労しいかぎりだ」
蘭涼を殿へと導きながら、玲林は本当に傷ましそうに言った。演技とは到底思えない口調だった。
ええ、わたくしもそう思います――と、蘭涼は心の中でだけ応じた。
あの憎らしい法狼機女や、法狼機かぶれの連中は、一人の夫と一人の妻の結びつきだけをむやみに重んじるが、それ以外にも友愛はどこにだってあるのだ。――蘭涼自身の気持ちとしては、この世で最も大切なのは誰よりも玉楊である。
――もしも大嬢が「梨花殿さま」と呼ばれることをお望みになって、そのために謀を巡らすなら、私は喜んで手駒になるだろう。
蘭涼はふとそんなことを思った。
築地塀の内に建っていたのは、ぎょっとするほど東院桃果殿とよく似た黒木の御殿だった。違うのは前庭に植わっているのが桃ではなく細葉榕であるところだけだ。
「驚かれたであろう?」と、玲林が微笑する。「この御座所は院主さまが入山なされたのちに改築されたのだ」
御殿は――桃果殿と同じく――東華風の造りだった。廊から三段の階が降りて、その下に青灰色の沓脱石が据えてある。
「だれかあるか? 後宮より当代の斑竹房さまがおいでだ」
玲林が呼ばわるなり、袖の広い白い袍をまとって幅広の黒繻子の帯を結んだ老若の女行者が滑るように現れ、蘭涼の脱いだ刺繍入りの深緑の絹張りの華奢な沓を恭しく押し頂いた。
「美しい御履物だ」と、黒皮の長靴を脱ぎながら玲林が微笑し、不意に小蓮を見やって鋭く命じた。
「女嬬よ、そなたは庭で履物の番をせい。その文箱はこちらで預かる故の」
この先は従いてくるな――と命じているのだ。
小蓮は一瞬怯んでから、玲林ではなく蘭涼を見上げて訊ねた。
「斑竹房さま、いかがいたしましょう?」
蘭涼は応えに窮した。
――もしかしたらこの内宮妓官はあの娘の正体に気付いているのかもしれない。
そのうえで追い払おうとしているのだとしたら?
もしかしたら、何か内密の話が聞けるかもしれない。
紅梅殿の判官には知り得ない秘密の話が。
そう思うとぞくぞくした。
「――斑竹房さま?」
小蓮が不安そうに呼んだ。
蘭涼は慌てて笑顔を取り繕った。
「郷に入れば何とやらだ。こちらの礼儀作法に従いなさい」
「――はい」
少女は不本意そうに答え、文箱と巾着を玲林へと差し出した。
黒木の廊は鏡のように磨き抜かれていた。
平絹の下沓ごしにも滑らかさが感じられる。
玲林は迷いのない足取りで蘭涼を奥の間まで導いていった。
縦に長細い板の間である。正面に天蓋付きの肘掛椅子が据えられ、鮮やかな山吹色の袍をまとって、両耳の上に垂れがかかる形の筒型の黒い帽子をかぶったでっぷりとした老女が坐っている。
両側に長い藍色の毛氈が敷かれて、白い袍姿の女導士たちが三人ずつ趺坐している。
蘭涼は殆ど機械的に平伏していた。
――この場所はまるで桃果殿の奥の間のようだ。
玲林が敷物の前で足を止めて呼ばわる。
「申し院主さま、白梅殿より使者が参りました」
「うむ」
正面の老女が――この蘭渓道院の院主である太上王后が頷き、重たげな翡翠の指輪をはめた右手をわずかにあげて答えた。
「面をあげよ。白梅殿」
白梅殿――と、院主は呼んだ。
その瞬間、蘭涼は全身の血が沸き立つような晴れがましさを覚えた。




