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第六章 山の御子 2

 櫓門を入ると目の前は広場だった。

 東にあたる正面に八角屋根の堂があり、三方を鮮やかな山吹色の壁が取り囲んでいる。後宮内宮と非常によく似た造りである。違うのは周囲を豊かな木々が取り巻いていることと、正面に列なる甍の向こうに断崖が見えることだ。


「女君がたは東の院にお住まいです」と、阿爾婁陀(アニルダ)が愛想よく説明する。「あちらは御座所と呼ばれております。我々は迂闊には踏み込めません」

「……我々とは?」

「もちろん、男衆という意味ですよ?」

 阿爾婁陀がまた悪戯っぽく笑いかけてくる。蘭涼はできるだけ冷ややかな表情をとりつくろって頷いた。

「あのう知賓(しひん)さま――」

 後ろを来る小蓮がおずおずと訊ねる。両手を拳にして口元にあて、むやみと瞬きしながら阿爾婁陀を見上げている。はにかみ屋の可愛い小娘を――たぶん演じているのだろう。まさかこれが素ではあるまいなと蘭涼は不安になった。

阿爾婁陀が人懐っこく笑いかけながら応じる。

「どうしたの?」

「ええと、その――あ、男の方々は、どちらにお住まいなのですか?」

「ああ」阿爾婁陀が笑って右手を示す。「修行を統べる首座さまは南の院にお住まいで、あっちは修行院とも呼ばれている。役職を持たない導士や修行者は修行院に房をもらって住んでいるね」

「たくさんの方が住んでいるのですか?」

「修行院に? う――ん、今は三十人くらいかなぁ――」

 無邪気そうな少女に熱心に訊かれるのが嬉しいのか、阿爾婁陀は訊かれるままに答えている。

 蘭涼はここに至ってようやくに結論付けた。

 小蓮のこれはおそらく演技だ。

 若い美男と話したがる小娘のふりをして情報を聞き出そうとしている。

 この娘の行動は、もしかしたらあの紅梅殿の判官からの指示に基づいているのかもしれない。

 そうと思いついた途端、蘭涼は激しい対抗意識を感じた。



 ――紅梅殿には負けられない。



 後宮の実務機関の筆頭たる白梅殿の名誉にかけて、こちらも相応の働きを見せなければ!



「知賓どの――」

 思い切って声をかけると、男は嬉しそうに――本当に心から嬉しそうに見える顔で笑いながら振り返った。

「なんでしょう斑竹房さま?」

「東が御座所で南が修行院となると、北にはどういった者が住まっているのです?」

「北の院は後宮と同じですよ」と、阿爾婁陀がにこやかに答える。「院の経営を統べる監院(かんいん)どのを頭に、主計を担う庫頭(くとう)どのや、庶務を担う授事(じゅじ)どの、食事のことを担う典座(てんぞ)どのといった役職持ちの導士が住まっています」

「経営を担っているのはすべて男なの?」

「まあ、そうなりますかねえ? 御座所の院主さまが――太上王后さまが入山なされたのは十一年前ですし、それより前からずっとこの山は存在していたのですから」

 阿爾婁陀が微かな皮肉を滲ませた声音で言った。その一瞬だけ、顔から一切の笑顔が消え、獲物を狙う猛禽のような険しい表情がよぎった。


 が、次の瞬間、男はすぐにあの過剰ににこやかな仮面をまとってしまった。

「ああ、でも、監院どのよりさらに上の役職にあたる都管(つかん)さまは女君で、御座所の院主さま第一の近侍としてお仕えですよ」

 これはなかなか複雑そうだ――と、蘭涼は舌を巻いた。

 一口に「蘭渓道院の策謀」と言っても、どこの誰がどの程度関わっているかを判じるのはなかなか困難だろう。ふと見ると、小蓮がちっぽけな額に皴をよせて難しい表情を浮かべていた。蘭涼は思わず請け合ってやりたくなった。



 ――大丈夫! 私は一度聞いたことは滅多に忘れないから。



 ずっと覚えているのはさすがに無理だが、少なくとも三日は忘れないだろう。その点、蘭涼は自分の記憶力に自信があった。伊達に御本家の縁故に頼らず超・難関の公文生登用試験を突破したわけではないのだ。



 御座所の壁には真ん中に半円形の門が設けられていた。

 一応扉はあるものの、上部が空いている。

 それほどしっかりした守りを固めているわけではなさそうだ。

 門の左右に黒装束の供華衆が杖を手にして並んでいる。

 両者は阿爾婁陀を見るなりぴしりと背筋を正した。

「ご苦労。後宮からのお使者を御連れいたした。奥に報せてくれ」

「はい知賓さま、ただいま」

 供華衆が恭しく応じ、蘭涼にも深く一礼してから、門の横に吊り下げられた板を備え付けの槌で叩いた。


 ターン、ターン、ターンと、小気味のよい打音が三度響く。


 すると、すぐに内側から扉か開いて、思いがけない装束の人物が姿を現した。



 白麻の筒袖の上衣と濃い藍色の括り袴。

 金刺繍で菱紋を縫い取った黒繻子の帯に黒鞘の刀を吊るし、背には白鷺の羽矢を収めた籐の箙を負っている。


 完全に内宮妓官の官服である。

 ちがうのは白髪交じりの髷の根元に橘の葉をかざしていないことばかりだ。


 蘭涼は唖然とした。



 ――なんで後宮の外に内宮妓官がいるの?



 ふと見ると小蓮も零れんばかりに目を瞠っていた。

 どうやらあの娘も知らなかったらしい。


「おや、愕かせてしまいましたかな?」

 目の前の初老の内宮妓官――どう見ても内宮妓官にしか見えない――が、眦に皴をよせて微笑した。やや浅黒く彫りの深い鷲鼻ぎみの顔だ。

 これも完全にカジャール系である。

「そなたは――」と、蘭涼はどうにか言葉を絞り出した。「その、いつからここに?」

都管(つかん)さまは十一年前からずっとお住まいですよ」と、阿爾婁陀が脇から答える。

「然様」と、今度は当人が応じた。「当代の斑竹房さまにはお初にお目にかかる。卑官、桃梨花宮内宮北院橘庭に所属する妓官にて、杜玲林と申す」

「――橘庭の妓官が、後宮の外に?」

「当代の桃果殿さまの御恩情により」と、玲林は莞爾と笑った。

「こちらが都管さまでもあります」と、阿爾婁陀が気さくな調子で言い添える。

 蘭涼は内心で天を仰いだ。この道院の内情、思った以上に複雑そうだ。

 そして、ふと不安に駆られた。



 ――もしこの道院が本当に毒殺事件の黒幕だったとして、橘庭(きってい)どのは何をどこまで知っているのだろう?



 半月ばかり拘禁されている間になぜか親しく関わり合ってしまった宋金蝉に、蘭涼はかなりの好意を抱いている。

 あの親切で朗らかな妓官の督が、実は後宮内での毒殺事件を密かに見逃している? 

 そんなことは想像するだけでも疎ましかった。


 そんなことはありえない、と蘭涼は自分に言い聞かせた。

 怪しい奴は他にも幾らでもいる。


 たとえば、この阿爾婁陀などだ。


 なぜ怪しいと思うのか特に理由はないが、笑顔自体がきわめて胡散臭い。


 表情をうかがうべく横目で盗み見ると、若造は何を思ったかにこにこと笑い返してきた。下の方で小さく手まで振っている。


 どこまでも苛立たしい男だ。


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