第五章 ときには繭の外へ 3
山門をくぐると、目の前は一辺十丈〈*約30m〉ほどの石畳の広場だった。
正面に瓦屋根の殿があり、左手には板葺きの長屋が建っている。
右手の手前に見事な細葉榕の古木があって、その向こうから登り路が始まっているようだった。
「斑竹房さま、ただいま籠の支度をいたしますゆえ、知賓殿でお待ちくだされ」
門衛が恭しく告げて、蘭涼を正面の殿まで先導してゆく。
蘭涼は全身の緊張が一気に解けていくのを感じた。
導き手が白鷺の羽矢を背負った内宮妓官ではなく黒装束の男であることに目を瞑れば、ようやくになじみのある世界に戻ってきたような気がする。あらゆることが先例通りに定まっている世界、完璧に調えられた箱庭のような調和のある小世界だ。
と、そのとき、
「あのう、東崗の方――」
背後を来る小蓮がおずおずと呼び掛けた。
門衛がぎょっとしたように足を止めて振り向く。
普段使いの日用品がいきなり声を発したかのような愕きの表情を浮かべ、助けを求めるように蘭涼に目を向けてくる。
蘭涼は戸惑いながらもわずかに頷いてみせた。
「その、ひとつお尋ねしたいのですが」
小蓮がおずおずと怯え切った様子でいう。
ついさっきまで見せていた活発で凛とした若い妓官の雰囲気とは全く別人のようだ。
「その、お籠はわたくしにも支度していただけるのでしょうか?」
小柄な小蓮が目を瞬かせていかにも不安そうに訊ねると、門衛は目を瞠り、そのあとで破顔した。
「もちろんだ小姐。あんたを頂上まで歩かせたりはしないよ」
「いえ、その、わたくし歩きたいのです。その――」
小蓮が俯きがちに言い、右手の登り路の傍らの細葉榕の古木を見やった。帳のように気根を垂らした見事な巨樹である。
「あの木、洞に祠がありますよね?」
小蓮がおずおずと訊ねた途端、門衛は意外そうに眼を瞠った。
「もしかして、百樹巡りかい?」
訊ねられるなり、小蓮はきゃっと小さく叫んで深くうつむいてしまった。
門衛が声を立てて笑う。
「小姐も嶺北の生まれかい? 言葉は京風だが」
「生まれ育ちは洛北です。母が嶺北の出で」
「ほほう。それでおっ母さんから聞いたのかい?」
「はい」
どうも二人のあいだでだけ共通認識があるようだ。
そして門衛の言葉は嶺北訛りだ。
――まさかこの門衛が柘榴庭に抱き込まれている……なんてことはないよね?
蘭涼はしばらく躊躇ってから、好奇心に負けて訊ねた。
「なんですか、その百樹巡りというのは?」
「いえね、昔から嶺北の田舎に伝わる他愛のない呪いなのですよ」と、門衛が優しい父親みたいな目つきで、はにかむ――少なくともはにかむそぶりをしている――小蓮を眺めながら言う。「根元の洞が祠になっている古木を百本めぐると宿願が叶うのです」
「百本とはまた……随分な数ですねえ」
慎重に応じると、門衛は白い歯を見せて笑った。「全くでございますよ! 本当にやろうと思ったらちょっとした巡礼になってしまいます」
「なりほどね――」
ここに至ってようやくに蘭涼は小蓮の意図を理解した。
古木を巡るふりをして東崗内を自由にうろつきまわるつもりなのだ。
門衛が嶺北の生まれであることは――事前に調べていたのかもしれない。
なかなかやるな柘榴庭、と蘭涼は讃嘆した。もしかしたらこの潜入は将棋の最後の一指しというやつなのかもしれない。
「東崗には祠のある古木は多くあるの?」
「それはもう、沢山ございますとも」
「斑竹房さま、ほんの少しだけお時間をいただけますか?」
小蓮が縋りつくように訊ねてくる。
蘭涼は無造作に頷いた。
「好きにしなさい。文箱と巾着は私が預かっておきます」
告げるなり、小蓮はぱっと顔を輝かせ、勢いよく頭を低めた。
「……――ありがとうございます!」
一声叫ぶなり、手にした品を蘭涼に渡し、裳裾を翻して古木へと駆け寄っていく。
その小さな後ろ姿をしみじみと見送りながら、門衛が小声で訊ねてきた。
「憚りながら斑竹房さま――」
「何です?」
「その、後宮仕えの女嬬どのは、時と場合によっては婚姻も許される、のですかな?」
「……なぜそのようなことを?」
すわあの小娘に一目ぼれでもしたのか? と警戒しながら訊ねると、門衛ははにかんだように笑って続けた。
「いやなに、若い娘の願掛けといったら、大抵は良縁祈願か、相思の相手と結ばれたいか、そのどちらかでしょうから」
何となく親心溢れる感じの声音だった。
蘭涼はしばらく考えてから、いかにもうんざりしたようにため息をついてやった。
「官位のない女嬬なら問題ありませんよ」
「それは良かった」
門衛は心から嬉しそうに言った。
改めて知賓殿へと向かいながら右手を一瞥すると、小蓮が裳裾を翻して山路を登っていくところが見えた。
あまり活発に走らないようにね――と、蘭涼は心の中でだけ忠告した。
あの娘は大層な演技派だが、奥仕えの女嬬と思うには身のこなしが機敏に過ぎる。