第五章 ときには繭の外へ 2
再び輿に戻って四半刻ばかり進むうちに、帳の外からまたしても喧騒が聞こえてきた。
「つきましたよ斑竹房さま!」と、外から月牙が人懐っこい声をかけてくる。「東崗の門前町です」
賑わいのなかをしばらく進むと輿が止った。
降り立つと町場のただなかだった。
蘭涼は愕いた。
--すごいな。まるで洛中みたいだ。
京のなかでも一番品の良い商業地区のようだ。
これが本当に河津道を二里も進んだ洛外の水田地帯なのだろうか?
足元の道は滑らかな切り石で舗装されているし、路傍には涼しい音を立てて清らかな水が流れている。左右に並ぶのは瀟洒な黒木造りの二階家の店舗だ。低湿地帯の家屋にはよくあるように二階が主な住居になっているらしく、どの店も彫刻を施した繊細な手すりを備えた露台を張り出している。その手すりや華奢な柱に青々とした忍冬の蔓が絡んでいる。
そんな瀟洒な街路の突き当りから長い石段が始まって、上に堂々たる丹塗りの四脚門がそびえていた。
濃い青灰色の瓦屋根を備えた豪壮な門だ。
金縁の黒い額が架かって、これも鈍い金色で四文字が方形に配されている。
――蘭渓道院
思った以上の立派さだった。
さすがに太上王后さまの――先代の王太后さまのお住まいだ。
蘭涼は改めて緊張を感じた。
「うわあ、随分立派な門なのですねえ」
お供の小蓮も感に堪えかねたような声を漏らす。
月牙が馬から降りながら苦笑いぎみに注意する。
「お供の方、ご主人に被り物を勧めなくてよいので?」
「あ、そうでした。すみません!」
小蓮が慌てて自分の乗っていた輿から菅笠と薄い白い羅の被布を取り出して差し出してくる。
「斑竹房さま、どうぞこちらを」
「ああ、ありがとう」
蘭涼は少しばかり惜しい気持ちで羅を被り、しっかりとした編みの菅笠をかぶった。
小蓮は菅笠だけを被る。
二人が笠をかぶっているあいだに、月牙は後ろに神妙に控える輿舁きと隊士たちの一団へと向き直った。
「みなご苦労! しばらく休息をとれ。次の鐘が鳴ったら河津道との辻に集まるように!」
「はい頭領!」
隊士たちがきびきびと答えた――よく見ると輿舁き四人も一緒に答えているようだった。
「ああ子明、馬を頼むよ」
「ハイハイ」
小太りで小柄な隊士が意外な気さくさで応えて黒馬の手綱を受け取った。
道一杯に群がっていた隊士たちがどこへともなく解散すると、月牙はほっとした面持ちで再び蘭涼へと向き直った。
「斑竹房さま、お待たせいたしました。山門までは籠をお使いになりますか?」
「大丈夫よこれくらい」と、蘭涼は強がった。「桃果門前の石段とそれほどは変わらないでしょう?」
「あ――」
月牙は口ごもった。
蘭涼だって分かっている。
この石段はどう見てもあの石段の二倍半はある。
しかし、蘭涼はどうしても自力で登りたかった。
久々に湧き上がってきた負けん気と闘志がよく分からない方向に作用している。
途中で何度か小休止を挟みながらも、蘭涼はどうにか石段を登り切った。
柔らかな繭を思わせる白い被布のなかでうっすらと膚が汗ばんでいる。
「ご足労をおかけしました」
月牙が労わるように言い、扉を開けたままの門の右手の房へと声をかけた。
「申し、どなたかございますか? 桃梨花宮東院東廂より、紅内侍さまのお使者を御連れもうしあげました」
門衛はすぐに現れた。
短躯だが逞しい体つきをした壮年の男である。
黒い上衣に黒い括り袴を合わせて背丈より長い杖を手にしている。
道院に仕える俗人である黒装束の供華衆だ。この連中が手にする杖に大抵は刃物が仕込まれていることは双樹下人の常識である。
門衛は月牙を見るなりぎょっとしたように金壺眼を瞠った。
「と、当代の柘榴庭どの、か……?」
「いかにも」
月牙が悠然と応える。「今は尚書省付き洛東巡邏隊の校尉を拝命しているが、今もってその名で呼ばれることが多い。本日は昔日のよしみで、当代橘庭さまより、東院の新内侍さまのお使者の警衛を仰せつかった」
「左様か」門衛は気おされたように応えた。「しかし、憚りながら、御身の入山は許可できぬ。清浄たるべき修道の山に帯刀の武官を入れることまかりならんと、院主さまより重々仰せつかっておるゆえ」
「東崗の方、案じなさるな!」と、月牙は朗らかそうな声音で応じた。「この柘榴庭は入山いたさぬ。山門までお使者をお送りしてきただけだ」と、恭しい仕草で蘭涼へと頭を低めながら続ける。
「こちらのお使者は斑竹房さまと仰せで、後宮でも重い身分のお方――万が一にも粗相のないよう、よろしくお頼みいたしますぞ?」
月牙がすごむように釘をさす。
なまじっかべらぼうに美しいため、上から睨みつける表情に強烈な迫力がある。
「あ、ああ。承った」
門衛は気おされぎみに応えた。
蘭涼は必死で笑いたくなる気持ちを抑えていた。
この元・妓官、わりと躊躇なく虎の威を借る性格らしい。