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第四章 密偵 3

「――斑竹房さま、大変失礼を致しました。どうぞ輿へ。お供の、ああ――」

「崔芳淳じゃ」

「崔芳淳さまもご同乗なさいますか? もしお入り用でしたら、すぐにもう一基の輿を手配いたしますが」

「うむ。それでは頼もうかの」

「ならば司令部(カルチエ)でお待ちを」

「かるちえ?」

「ああ、かつての柘榴庭のことです。柘榴庭には今は洛東巡邏隊の隊士たちが――後宮領から集められた供奉衛士の家の息子たちが宿営しています」

「――外宮妓官の宿所に、(おのれ)が宿るのか?」と、芳淳が眉をよせる。

 月牙は寂しげに笑って頷いた。「この一年で、外宮も随分様変わりしました。今は京洛のリュザンベール人の居住区として『新租界』と呼ばれているのですよ。――ああほら、右手のあの白い壁のリュザンベール風の邸、あれがメゾン・ド・キキです」

「あの場所は前の芭蕉庭?」

「ええ。外大池の向こうが副領事館です」

「前の杏樹庭じゃな?」

「そうです」

「外宮大膳所はどうなっているの?」

「柿樹庭ですか? あの庭には今はリュザンベール風の小さな借家が沢山立ち並んでいますよ。新北宮に出入りする楽師や絵師や料理人なんかが住んでいましてね――」

 内南門から外砦門へとまっすぐに伸びる幅十丈〈約30m〉の土のままの大路を歩きながら、月牙は懐かしそうに説明した。


 正直なところ、蘭涼はかつての外宮の光景をそれほどしっかり覚えているわけではなかったが、今の旧・外宮がだいぶ様変わりしているのだろうことはよく分かった。



 今は「司令部(カルチエ)」と名を変えたかつての柘榴庭は外砦門のすぐ右手だ。木戸の前に、黒いズボンと黒いジレ、襞の多い白麻のシャツというリュザンベール風の装束をまとった若い男が二人立っている。右手の一方がマスケット銃を担っていた。


「頭領、どうなさいました?」

「輿がもう一基必要になった。斑竹房さまとお供の方は中でお休みになる。私の房でもてなすから茶の支度を頼むよ」

「承りました」

 若者の一方がきびきび応えて木戸を開けてくれる。

「どうぞ斑竹房さま」

「ああ、ありがとう」

 蘭涼は気後れしながら入った。


 後に続いた芳淳が、一対の長屋のあいだを抜けて広い庭へと入りながら、意外そうに呟いた。「なかなか礼儀を弁えているな。なりこそ珍妙だが、昔日の若い柘榴の妓官を見るようだ」

「当然ですよ。この柘榴庭が仕込んでいるのですから」

 前を行く月牙が誇らしそうに応じた。



 名の通り柘榴の古木の植わった広々とした庭には、新造らしい数棟の長屋に加えて、古式ゆかしい一辺二丈〈約6m〉の高床小屋が四軒残されていた。かつて外宮女官に与えられていた部屋である「方二丈」だ。月牙は右端の一軒へと蘭涼たちを導いていった。

「どうぞ中でお待ちを」

 よく磨かれた七段の階をのぼって室内に入ると、中は意外に普通の女官の房のようだった。真ん中に衝立が据えられ、手前のほうが客間のようにしつらえられている。おそらく奥には寝台と衣装櫃があるのだろうな――と、蘭涼は予想した。


 勧められるままに厚手の藍色の毛氈の上に坐って待っていると、ほどなくして外から扉が叩かれ、月牙と同じ装束をまとった小柄な少女が上等そうな紫檀の盆で茶を運んできた。


「ど、どうぞ斑竹房さま」

 びくびくしながら白磁の椀を差し出してくる。

「ありがとう」

 蘭涼は笑って受け取った。

 薄手の椀の中に充たされていたのは薫り高い淡金色の白茶だった。ゆっくりと味わいながら飲んでいたとき、隣に坐る芳淳がふいにうめき声をあげた。


「う、うう、腹が、腹が痛いぞ」


 ――怖ろしいまでの棒読みだった。


「おお、それは大変ですね!」


 月牙が、こちらも結構な棒読みで応じ、腹を抑えて蹲る芳淳の背中を撫でさすりながら続けた。

「きっと帯がきつすぎるのでしょう。どうぞお楽な服装をなさってしばらくお休みくだされ。――小蓮(しょうれん)!」

「はい頭領!」

 今しがた茶を運んできた少女が跳ね上がるように返事をする。

 月牙はひょいと衝立のほうへ顎をしゃくりながら命じた。

「お供の方のお召し替えを手伝ってさしあげなさい」

 蘭涼は困惑していた。


 これは予め定められていた筋書きなのだろうか?

 


 蘭涼の困惑にかまわず、芳淳は殆ど同じ背丈の小蓮に支えられて衝立の奥へと消えた。

 しばらくごそごそ音がしたかと思うと、じきに静まり返る。


 ややあって、一人だけが戻ってきた。


 小蓮だ。


 しかし、先ほどとは身なりが異なる。

 今しがたまで芳淳が着ていた濃い藍色の裳衣をまとって、翡翠色の組紐をかけた文箱まで抱いている。崔芳淳という祐筆の気質を蘭涼はよく知っている。大嬢から託された文箱を無理やり奪われるくらいなら舌をかみ切って死ぬだろう。


 どうやらすべて前もって決められた通りの手順だったらしい。


「――柘榴庭」

 蘭涼は思わず刺々しい声で呼んだ。


「な、なんでございましょう?」


 すぐにおろおろする。

 どうもこの妓官、想定外の出来事には弱い性質(たち)とみた。


「こういう企てをするなら事前に報せておきなさい。私の供、名は何と呼べば?」

 いつだかの大嬢の真似をして皮肉な調子で尋ねると、月牙は意外そうに眼を見開き、そのあとで声を立てて笑った。

「お好きにお呼びください」


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