第四章 密偵 2
「東院からはどなたがいらっしゃるのでしょうねえ。きっとさぞよくお作法を弁えたお方なのでしょうねえ」
何かいろいろ不服らしい燕児が、蘭涼の髷の根元に白梅を象った飾り櫛を差しながら嫌味っぽく呟いているとき、
「申し斑竹房どの。主命により桃果殿東廂より参上いたした」
廊のほうから厳しくも重々しい声が響いた。
燕児が慌てて立ち上がって扉を開けるなり、
「――ご、ご祐筆さま!?」
一声叫んで深々と頭を下げた。
「よいよい、楽にせい。斑竹房どの、入室してよいかの?」
「え、ええ。勿論」
「それでは失礼」
重々しく告げながら入ってきたのは、見るからに質のよさそうな濃い藍色の裳衣をまとった六十歳ほどに見える小柄な婦人だった。鮮やかな翡翠色の組紐をかけた黒漆塗りの文箱と、同じ色の絹の巾着を携えている。
「これは芳淳どの」
蘭涼は慌ててきちんと向き直った。
「どうなさいました? 東崗へはやはりあなたさまが行かれることに?」
「いや」
婦人は――前の石楠花殿の貴妃付きの私的な祐筆たる崔芳淳は重々しく首を横に振った。
「及ばずながらわたくしが供を致す。斑竹房どの、何卒よろしゅうな」
「そ、それはかたじけないかぎりです」
蘭涼はどうにかそれだけ応えた。
私的な仕え人とはいえ、前の貴妃のお傍近くに侍っていた祐筆と薬師というのは独特の立場である。仕える貴妃が正后として立った場合、この一対の仕え人は、場合によっては北院女官の筆頭たる白梅殿の督をもしのぐ影響力を持つこともあるため、周囲からは相当に重んじられてきたはずだ。
東院風の古く厳しい作法――という点では十分以上だろうが、そういうお方に密偵などが務まるのだろうか?
そもそもこれではどちらが従者だか分からない。
――大嬢は何を考えているんだ……?
「それで斑竹房さま、ご祐筆さまも、お気をつけて行っていらっしゃいませ」
廊に並んだ女嬬たちに見送られて蘭涼は部屋を出た。
まずは正殿に周り、上役である白梅殿の督に出立の挨拶をすると、深緑の組紐をかけた文箱を二つも託されてしまった。
「これは白梅殿からの祝儀だ。一方は蘭渓道院さまに、もう一方は前の芙蓉殿さまに。それぞれ銭票で五十両ずつ包んである」
銭票は民間の両替商である銭荘が発する銭と引き換えられる手形で、大きな銭荘が発する票であれば、京洛では殆ど公の貨幣と同じほどの信用度を持っている 。
「なかなかの額でございますね。みな公の資金からで?」
蘭涼が思わず咎めるような調子で訪ねると、白梅殿の督は意外そうな顔をした。
「珍しいな。そなたが上のやり方に逆らうようなことを言うとは」
そして、なぜかにやりと笑った。「なあ斑竹房、立身したかったらたまには博打を打て。唯々諾々と流されているだけでは上には登れんぞ?」
化粧気のない痩せた顔をした五十がらみの白梅殿の督は、悪戯を思いついた悪童のような表情で笑った。思いもかけないほど魅力的な笑みだった。
「お待たせしました芳淳どの!」
祐筆は正殿の前庭で待っていた。
「なんの、お気になさるな。さて、では参ろうかのう」
悠々たる足取りで門へと向かっていく。蘭涼は慌ててその背を追った。
本当にどちらが従者だか分からない。
内宮妓官が一人で護る北院の表門を抜け、今や後宮の陸側の表玄関となってしまった内南門を出ると、門前にもう輿が待ち受けていた。
街中で借りられるごく普通の輿だ。担ぎ手らしい四人の若者たちがひざまずいて畏まっている。
その傍に、艶やかな黒馬を曳いた懐かしい長身の姿があった。
白い筒袖の上衣と浅葱色の括り袴。
緋色の帯に吊るした黒鞘の刀と、二十本の白鷺の羽矢を収めた籐の箙。
元・外宮妓官の頭領の蕎月牙である。
その姿があまりにも変わっていないことに蘭涼は愕いた。
相変わらず、まるで美しすぎる青年のような美貌だ。
美貌の元・外宮妓官は、どちらも文箱を抱えた蘭涼と芳淳を困惑したように見つめ、しばらく逡巡してから、芳淳のほうに視線を定めて頭を低めた。
「斑竹房さま。お待ちしておりました。本日護衛をつとめる尚書省付き洛東巡邏隊の校尉でございます。よろしければ、昔日のままにどうぞ『柘榴庭』とお呼びくだされ」
さすがに旧・外宮の庭の頭領である。
堂々としながら実に優雅な挨拶ではあった。
しかし、視線が間違い続けている。
蘭涼が反応に窮していると、
「うむ」
芳淳が慌てず焦らずに応じ、
「ところで柘榴庭よ、一つ申したいことがあるのだが」
「なんなりと」
「わたくしは供じゃ。斑竹房どのはこちらじゃ」
「え、ええ?」
冷静沈着そのものに見える怜悧な美貌の元・外宮妓官が意外なほどうろたえ切った声を上げた。
見た目より動じやすい性格らしい。