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第四章  密偵 1

さて、半月後の早朝である。


 蘭涼はまたしても朝から丹念な身支度に励んでいた。

 本日の行き先は東崗(とうこう)蘭渓道院(らんけいどういん)


 かなり久々の後宮外への遠出である。


 双樹下後宮の高位の内宮妓官は基本的には入ったら入ったきりだが、何かしら所縁のある社や道院への参詣は特例として許される場合がある。


小姐(おじょうさま)、お気をつけてくださいね」と、道院を詣でるのにふさわしい墨染色の帯を結びながら、燕児は何度も繰り返した。

「心配しすぎよ」と、蘭涼は呆れぎみにいなした。「東崗はそんなに遠くないのだし、大嬢はわざわざ桃果殿さまに申し上げて、橘庭を通じて柘榴庭に護衛を頼んでくださったのだから」

 桃果殿さま、という部分を強調して告げると燕児は満足そうに頷いた。

「そこのあたりは、ま、さすがに前の石楠花殿さまですね。東院(あちら)でも随分しっかりした地位を築いていらっしゃるようで」

「ねえねえ斑竹房さまぁ」と、若い女嬬の範英華(はんえいか)が無遠慮に口を挟んでくる。「今日は本当にお供は要らなんですか?」

「今日は私は新内侍さまの代理だもの。お供はあちらからつけてくれるそうよ」

「ええ――そんなの狡い――」

 十六歳の英華が子供みたいな駄々をこねても、燕児は聞かぬふりだ。


 英華は蘭涼の生家に出入りしていた富裕な書籍商の娘で、三年前、かなりの支度金を携えて部屋付きの女嬬になった。官職をもたない私的な女嬬の宿下がりは認められているから、落ち目になってしまった蘭涼のところにいまだに残ってくれているだけでも、重々感謝しなければならない相手なのだ。


「今回は我慢しなさい。なにしろ蘭渓道院ですからね。東院風の古い厳しい作法があるのでしょうよ」

 慎重に言葉を選んではぐらかしながら、蘭涼は内心で冷や汗をかいていた。



 ――あの主計官、あんまり妙な者を寄越さなければいいんだけど。



 今日これから赴く蘭渓道院に同行する女嬬は、本当はあの紅梅殿の判官がよこしてくる者だ。

あの肝の太い大雑把な主計判官の言うには、「ま、あれですね、いわゆる密偵ってやつですね」ということらしい。



     ◆



「――お耳にいれようか迷ったのですが、やはりお話しておきます」

 半月前の茶の席で、主計判官はそんな前置きをしてから、先だっての毒殺事件の仔細を事細かに話しつくした。


 ――この主計官、大嬢(ひめさま)のお耳になんということを聞かせるのだ……と、蘭涼は内心で憤ったが、当の大嬢たる玉楊はと言えば、またしても蘭涼が初めて見るような凛と張りつめた表情を浮かべ、真剣そのものの面持ちで耳を傾けていた。



 雪衣の話によると、煙草から抽出した毒物によって先に殺されたのは旧・柘榴庭付随の牢屋敷に捕らわれていた遜子蘇のほうで、実際に手を下したのは、今も後宮内にわりあい自由に出入りできる旧・外宮典衣所の針女だったのだという。

「魯秋栄という娘でしてね」と、主計判官は沈鬱な表情で話した。「今も後宮女官の身分のまま、メゾン・ド・キキに――正后さまのためのリュザンベール服を仕立てるマドモアゼル・キキのお屋敷に入って、それはもう熱心に仕立てを学んでいたのです」

「そなたはその針女に目をかけていたのか?」と、玉楊が訪ねる。

「ええ。本当に良い娘でした。あの子が囚人を毒殺した理由はただ一つ、あの子にとっては天にひとしい内宮典衣所の――紅花殿の督に命じられたからです」

「――紅花殿が同じ毒で自害したのは、その咎人が殺された後だったのだな?」

「ええ。すべては己独りの画策だと書き残されて」

 雪衣はそこで言葉を切り、怯えた獣のように左右に視線を走らせてから、まっすぐに玉楊を見やって続けた。

「その毒物の原料である煙草を、蘭渓道院さまが紅花殿さまに贈っていたのです」



 説明が終わると沈黙が落ちた。


 外の水盤で小魚の跳ねる音さえ聞こえる気がした。


 ややあって玉楊が口を切った。

「――つまり、そなたは、蘭渓道院さまが?」


「……大嬢!」


 蘭涼は慌てて止めた。「いけません、それ以上お口になされては。――紅梅殿の、そなたどういうつもりです? そのような暗がりの謀をなぜ大嬢の耳に?」

「なぜってそりゃ、聞かれたからですよ」

 雪衣が片眉をあげて答えた。

「斑竹房どの、わたくしは新内侍さまを頼りにしているのです」

「頼りに? そなたが私を?」と、玉楊自身が意外そうに言う。「そなた、去年の冤罪を自ら晴らしてこの方、貪官汚吏を成敗する謎解き判官さまと辻芝居にもなっていると聞くぞ? それがこの数にもならぬ前の貴妃を頼りにするというのか?」

 雪衣は頷いた。

「ええ大いに。――先ほど新内侍さまご自身が仰せのように、西院梨花殿にいらせられる当代の正后さまは稚い童女のようなお人柄ですし、通訳なしで複雑なお話を申し上げることもできません。東院桃果殿の王太后さまは公平で謹厳なお人柄でしょうが、あまりにも雲居の方すぎてそもそも声が届かない。そこへいくと新内侍さまなら、こうして密かにお話することもできますし、桃果殿さまへと言葉を届けていただくこともできる。困ったときに頼るにはちょうど良いのですよ」

「そうか。ちょうど良いのか」

 玉楊は嬉しそうに応じ、ふと眉を寄せた。「雪衣、そなた、何か困っているのか? その――先ほどの、蘭渓道院さまの贈り物の件で」

 玉楊がちらりと蘭涼を見て適度に言葉をぼかしながら訊ねる。


 雪衣は何となく言いづらそうに応えた。

「実は困っております。――わたくしというより、柘榴庭が、ですが」

「ほう」

 玉楊は特に愕かずに応じた。

 蘭涼も愕かなかった。


 紅梅殿の判官と旧・外宮妓官の頭領は、去年の夏から秋にかけて、正后さま毒殺未遂の冤罪を着せられて二人して潜伏を続けた挙句に、自ら証拠を集めて御史台で潔白を証立てた組み合わせだ。

昨年、蕎月牙がたまたま雪衣の護衛をしていたという以外、公には何のつながりもない二人だが、「判官さまと柘榴庭」はこの頃何となく一対の存在とみなされている。


「柘榴庭は何を困っているのだ?」

「例の赤心党とやらの後援者として蘭渓道院が疑わしいというところまでは突き止めたというのに、太上大后さまの御威光で、柘榴庭がいま率いている洛東巡邏隊は敷地内に一歩も踏み込めないのです」

「なるほど――」

 話を聞き終えた玉楊はしばらく考え込んでから、ふいに破顔した。

「それなら雪衣。いい案がある」

「なんでしょう?」

「私が蘭渓道院に行く。柘榴庭はその護衛をすればよい」

「――大嬢、それはいけません」

 それまでじっと我慢して話を聞いていた蘭涼は慌てて制止した。

「明らかに怪しいと判っている場所に踏み込むなど、いくらなんでも危なすぎます」

「いや、べつだん危なくはないだろう。太上王后さまが仮に本当に赤心党とやらの後援をしていたとしても、この玉楊に何かをするとは思えない。なあ雪衣、何もしないと思うだろう?」

「そりゃまあ、新内侍さまはどちらかというと反リュザンベール派のひそかな旗印、わが心の美しき偶像みたいな存在ですからねえ。なさるとしたら勧誘でしょうかね?」

「それが一番危ないのですよ!」と、蘭涼は堪えかねて怒鳴った。「勧誘されて断ったらその煙草とやらで殺されるに決まっているでしょうが!」

「蘭涼、蘭涼、声が大きい」と、玉楊が慌てて止める。「ならどうしたらいいのだ」

「わたくしが参りますよ!」

 蘭涼は反射的に答えていた。            

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