第一章 斑竹房の判官 1
書房の内は閑かだった。
シュッシュッと割り竹の表面に砥石をかける音ばかりがむやみと耳につく。
建物の周りが竹林だから、初夏だというのに蝉の声ひとつ聞こえないのだ。
この場所は「斑竹房」――双樹下国の後宮たる桃梨花宮北院公文所の別坊の古い書房である。
「白梅殿」の雅称を持つ北院公文所のすぐ裏手に建てられた古式ゆかしい横長の高床小屋は内も外も竹だらけだ。
室内の三方にしつらえられた七段重ねの棚に、丸められた竹簡がびっしりぎっしり詰め込まれ、文机の左右にもこんもりと山積みになっている。
それだけでは足りないとでもいうかのように、小窓の下で房付きの女嬬である白髪の老女が、これだけが人生の一大事とばかりに、新たな竹簡に砥石をかけ続けているのだった。
――ここの古記録の保管、なんでいまだに竹簡でなければいけないのだろうなあ?
新米の員外判官の紅蘭涼は――文机の前で愛用の黒竹の筆をとりつつ――今更ながら思った。
どうせ書き直すならそろそろ紙にしてもいいじゃないか?
もう竹はうんざりだ。
蘭涼がこの古い書房の責任者として房付きの員外判官に任じられたのは七か月前のことだった。
自ら荘園を所有して独立した経理を営む双樹下後宮において、公文所の権威は極めて高い。そこの三等官たる「白梅殿の判官」となったら出世も出世、大出世、とりたてて後ろ盾を持たない後宮女官だったら「女官として位人身を極めた」と言ったって言い過ぎではないほどだ。
しかし、その役職が「斑竹房の員外判官」となったら話は別である。
双樹下後宮三百年の日々の些事をひたすらに綴った「柘榴庭諸事日記」だの「内膳所日々帳」だののどうでもいい古記録を管理修繕し、傷んだものは書き直してまたしても収め直すという――言ってみれば究極の閑職である。
古来、この職をあてがわれるのは、白梅殿勤続五十年、自分自身が古記録みたいな最古参の平の文書生だった。彼女らにとっては官吏生活最後の誉れだったのだろうが――……あいにくと蘭涼はまだ二十七歳である。
父は京洛地方の官吏教育機関たる国子監の祭酒〈*学長〉で、財力はさしてないものの名望は申し分ない。そのうえ、ついこのあいだまでは強力な後ろ盾にも恵まれていた。
かなり遠縁とはいえ、父祖を辿れば同族の洛中紅家の姫君、美しくも聡明な紅玉楊さまが、蘭涼が北院入りしたのとちょうど同じ時期に、同い年の少年王の貴妃の一人として、西院石楠花殿に入っていたのだ。
家柄もよく、強力な縁故もあり、当人の才覚も十分以上の白梅殿きっての俊英。
そんな立場だったはずの蘭涼が、今なぜこんなところで竹の削り屑にまみれているのか?
発端は早くも二年前、驚天動地の出来事に遡る。
長らく後宮に足を運ばず、よもや当代の主上は女性はお好みでなないのかのう?――と古参の後宮女官に密かに心配されはじめていた若き双樹下国王暁成が、「リュザンベール」なる双樹下人には殆ど発音もできない遥か西方の異国の姫君を、いきなり後宮に連れてきて「この姫を正后とする」と宣言したのだ。
そこから色々紆余曲折あり、後宮は一度廃止までされたが、今は西院梨花殿にリュザンベール人の正后様がお戻りになり、男御子もお生まれになって、ともかくも存続しつづけている。
蘭涼の不遇は、このリュザンベール人の正后が現れたときから始まった。
恵まれに恵まれていたはずの家柄と縁故が、危険視されるとなったら今度は逆の意味で強烈に効いてしまったのだ。
今の蘭涼の立場は、いつ当代の正后さまに牙を剥くかしれない潜在的な危険分子だ。