壁に漱石
彼女には少々神経質なところがあった。
中背で細身の彼女は、胸がないことを気にしているらしい。「腹の肉はごまかせないけど、胸の肉はごまかせるからいいじゃない」と言ったら「デリカシーがない」と怒られてしまったことがある。細かいことに拘らないわたしみたいなのとは合わないタイプの女性であるのだが……。
同僚のわたしは、年が近いせいと、職場に女が少ないということから、彼女に友達として認識されてしまったようである。迷惑なことだ。
しかし、職場の人間関係を重視するわたしとしては、彼女を無下に扱うわけにもいかない。そんなわけで昼休みや仕事帰りに彼女のおしゃべりに付き合わされるはめになった。
たわいのないおしゃべりにふがふがと相槌を打つくらいならばかまわない。が、最近なにやら深刻な相談事まで持ちかけられるようになってしまった。
「私、ストーカーに狙われてるみたいなの」
「……それはそれは」
「まじめに聞いてる?」
また怒られた。
仕方がないので、何を根拠にストーカーされていると思うのか、を丁寧に訊ねる。
「めちゃめちゃ見られてる気がする」
「はあ」
よほどやる気のない発音だったのだろう、睨まれた。
ならば聴く気を起こさせる話し方をしてほしいと思いつつ、 「どんな風に?」 と重ねて訊くと、
「部屋にいるとさあ、背中にすっごい視線感じるの。絶対盗聴器とかあると思ってさあ、なんか、あれ、調べるやつ! 友達に借りて調べたんだけど、何も出てこなくて」
それはストーカーされてないということなんじゃないかな。
「でも視線は感じるんだもん」
「警察に相談したら」
「そんなの無理。動いてくれるわけないじゃない」
それはそうだ。狙われてる気がするくらいで、盗聴器もカメラも仕掛けられてないのに相手にもされないだろう。
「まあねえ。じゃあ、防犯装置とかつけたら」
「そんなお金ないもん」
ぶすっと口を尖らせる。
まあ、いつもの通り気にしすぎなだけだろう、一通り話しつくしてしまえば、精神衛生上のガス抜きは完了である。わたしもここから解放され、快適なでろりとした日常に戻れるのだ。そうしたらとっとと帰ってねっころがってゲームでもやろう。
そんなことを考えていたら、思わぬことを提案されてしまった。
「ね、うちに来てさあ、ちょっと見てみてくれない?」
「何を」
「だって心配なんだもん」
会話がかみ合っていない。
わたしなどに何を見ろというのか。見てどうしろというのか。よくわからないままに 「いいから、いいから」 と彼女のマンションまで連れて行かれる。
どうしてこんなことに。
わたしはドアの前で途方にくれた。古めの建物だが、エントランスは清潔だし、管理は悪くない。
「あがってー」
部屋の中から彼女が呼びかけてくるので、しぶしぶ入る。
「いい部屋だね」
「でしょ? なんか、家賃が破格に安くってさ、お買い得だったの」
「そうですか」
家賃を聞いてみると、確かに安い。安すぎる。
これはストーカーよりも成仏できないタイプの人を疑ったほうがいいんじゃないかな、とチラと思うものの、口には出さないでおく。わたしは波風を立てるのは嫌いだ。
「お茶入れるねー」
冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出しながら彼女が言う。
この場合お茶を淹れる、というよりは投入する方の入れるだから言葉使いとしては入れるでいいのかな、などとどうでもいいことを考えつつ、部屋を観察させてもらった。
ソファとテレビとローテーブルと観葉植物。ベッドルームは向こうの部屋なのだろう。2LDKとしては悪くない。
背中に視線を感じる、と言っていたから、ソファの後ろ辺りを怪しんでいると、彼女がお茶のグラスを運んできてくれた。
「そのあたり。何か怪しいよね?」
……わたしは怪しさを感じて怪しんでいたのではないのだけど、という反論はしなかった。面倒くさかったのだ。
「ね、何かおかしい? どこがおかしい?」
「そんなこといわれても」
「お、お化けとかいない?」
あ、やっぱり成仏できない人も疑ってたんだ。
「さあ……ていうか、何でわたしにそんなこと訊くの」
「だって……」
「だって?」
「除霊とかできそうだし」
できねえよ。
彼女の中でわたしはどんなイメージに成長しているのか、本気で心配になってきた。
無言で遠い目をするわたしに、彼女が子犬のような目ですがってきた。
「ね、どうしたらいい? やっぱり何かいるの?」
不安そうな彼女に、 「知るかボケ」 とは言えなかった。
「……盛り塩とかしたらいいよ」
力ないわたしの声に励まされ、彼女の顔が輝いた。
「塩? それなに? 塩がいるの? ちょっと待って!」
キッチンに駆け込む。 「あっ! 塩がない!」 という叫びが聞こえてくる。
「ちょっと塩買ってくる! ちょっと待ってて!」
そのままドアに飛びつき、外に消えていくの彼女をわたしは呆と眺めていた。
適当に盛り塩をつくって、すみやかに帰ろう。そう心に決めて、お茶でも飲もうとソファに座ろうとしたときだった。視界の隅に違和感。
「ん?」
よく見ると、壁紙の一部がめくれていた。手抜き工事というか、手抜きリフォームのせいで家賃が安いのだろうか。しかし、よくよく見るとソファ側の壁紙だけ、他の面と少し違うような気がする。
なんだか気になって、少し剥がしてみた。思ったよりも簡単に剥がれる。ぺろりとした手ごたえだ。のりを使わないで貼って剥がせるタイプの壁紙らしい。
どうしてこの面だけ、という疑問はすぐに晴れた。
壁紙の裏が、紙幣でびっしりと埋め尽くされていたからだ。
壁の端から端まで、夏目漱石のオン・パレード。
なるほど、彼女を悩ませていた視線は、これが犯人だったのか。わたしは納得した。こんなに大量の漱石に見つめられては、神経質になるのも無理はないかもしれない。
ひとつの謎が解決し、新たな疑問が生まれる。
わたしはこれを追及しようか迷った。即ち、なぜ漱石か、という問いだ。諭吉ならまだ納得できる。しかし漱石では、面積辺りの金額があまりにも低い。こうまでして隠す意味が良くわからない。
なんらかの犯罪がここで行われていたとして、壁に漱石を張り付けるような犯行といったら……。なんなのだろう。前に住んでた人が漱石マニアだったのかな?
考えるのがめんどうになってきたとき、欲しかったゲームソフトが先日発売されていたことを思い出した。まだ買っていない。ついできごころで壁の紙幣に手が伸びた。うっしっし、一列くらいいただいたところでわかりはしまい。
剥がしかけたところで、深爪気味に爪を切る癖を深く反省した。剥がれなーい。
それでもしぶとく爪をコリコリいわせていると、あまりに強力に貼り付けられているせいで、指先の作業だけだというのに息が上がってきた。はあはあしながら漱石と見詰め合うわたし。
はたから見たらちょっとしたヘンタイさんと勘違いされるかもしれない。それはひととして大変に困る。作業をスピードアップさせ、わずかな爪先を駆使して漱石を毒牙にかけて行くわたし。かたくなにわたしを拒む貞淑な漱石。
もうやだよ。
舌打ちをして壁から、もとい漱石から指を離した。
もうめんどい。
もういいよ。ゲームくらい自腹で買うよ。買えばいいんだろ。
そんな負け惜しみを胸中でつぶやきながら、未練たらしく一面の漱石を見渡す。
瞬間、目の錯覚だろうか、一番端の漱石に違和感がはしる。
よくよく見つめてみると、黒目の位置がほかのものと違うのだ。ほかの漱石たちはどこを見つめているかわからない顔で茫漠と正面を見つめているが、その漱石は斜め下にいるわたしを見下ろすように睥睨している。
まさか、偽札か?
それならば、この一面の千円札の謎も解決するというもの。警察を呼んでハッピーエンドであろう。
なるほどと納得しかけたわたしの思索をあざ笑うかのように、漱石が口を歪めた。
ちょっと待て、なぜ紙幣に印刷された絵であるところの漱石おじさんが動くのでありますか?
あ、そうか、ホログラムね。
なるほどと自分を納得させようとしたわたしの努力をあざ笑うかのように、その他大勢の漱石たちがいっせいに目の玉を動かしてわたしに視線を集中してきた。ぞぞ、という音までするかのようだ。
ちょっと、イタイイタイ、視線が痛い。そんな見つめないでください。
のんきな感想を思うが、実際は恐怖で後ずさりしてしまう。だってこれ、怖いよ千円札。日ごろ何気に見逃している顔が急に威厳たっぷり、畏怖に満ちて視界を圧倒する。
千円札の肖像たちが口をゆがめおもむろに声を発する。
「我を」
耳にしたのはそこまでだった。
わたしは剥がれかけていた壁紙をさっとひと撫でして漱石たちに被せ、元通りに貼り付け、その場には静寂が戻った。
ナマケモノも、木から落ちれば驚くべき速さで枝に戻るという。
そのときのわたしの俊敏さも、おそらく危機的状況下のナマケモノに匹敵したと思われる。
たぶん、ナマケモノもことなかれ主義なのだろう。
漱石たちが何を言おうとしていたのか、それはいいことなのか悪いことなのか、利になることか損になることかはわからない。
だが、わたしは波風を立てないタイプの人間なのだ。
背中に視線を感じつつ、のんびりお茶を飲んでいると、彼女が塩を抱えて帰ってきた。
わたしは部屋の四隅に盛り塩をして、 「もう心配ないよ」 と未だかつてないほど爽やかな笑顔を贈ってあげたのだった。
世はすべからく、こともなし。
これホラーでいいんですかね。